家康 第三巻刊行に寄せて<長篠の戦いを勝利に導いたのは、信長ではなく家康だった>安部龍太郎著
著者によるナビゲーション。第三巻「長篠の戦い」についてご案内させていただきます。
お陰さまで第一巻、第二巻ともにご好評をいただき、ほっと安堵の息をついているところです。
中でも解説を書いていただいた方々のご厚情と作品理解の深さに感激しています。
第一巻では澤田瞳子さんが、拙作では戦国時代とは何かという問題に対する答えが提示されているとご指摘下さいました。
第二巻では細谷正充さんから、安部龍太郎のデビュー作までさかのぼり、「女性と絡ませることで、新たな造形ができるという思いが、無意識のうちにあったのではないか」と正鵠(せいこく)を射たご指摘をいただきました。
そして第三巻では、『邂逅の森』で直木賞を受賞された熊谷達也さんが、歴史小説を書く難しさを実作者の立場から率直に語って下さっています。
さて、恒例に従い、第三巻の読み所を三点案内させていただきます。
第一点は、本巻の副題にもしている「長篠の戦い」です。
長篠の戦いと言えば、「織田信長が三千挺の鉄砲を使って武田の騎馬軍団を打ち破った」というように記憶している方が多いと思います。しかし、厳密なことを言えば、この戦いを勝利に導いたのは、信長ではなく家康でした。
信長は家康の求めに応じ、二万五千余の軍勢をひきいて出陣したものの、合戦当日は最前線より二キロほど後方の極楽寺跡のあたりに布陣し、前線には羽柴秀吉、前田利家、佐々成政ら五千の兵しか出しませんでした。
それは家康が立てた戦術に従ったからです。
敵は長篠城を囲んだ武田勝頼勢一万五千です。これに対して家康勢八千、信長勢二万五千が馬防冊を盾にして布陣しているのを見れば、いくら血気にはやった勝頼でも、寒狭川を渡って設楽原まで進軍するのはためらいます。
そこで家康は信長の援軍のうち五千だけを前線に出してもらい、自軍の八千と合わせて一万三千しかいないと勝頼に思い込ませることにしました。
だから信長本隊二万は二キロも後方に隠していたのです。
勝頼はまんまとこの罠にはまり、設楽原まで出陣しました。そして、鳶ヶ巣山から長篠城に迂回した酒井忠次らの軍勢に退路を断たれ、一万余りの将兵を討死させる大敗北を喫したのです。
こう書けば第二巻を読んでいただいた方は、三方ヶ原の戦いで家康が武田信玄にやられた作戦とよく似ていると思われるのではないでしょうか。
そうです。家康は信玄に大敗して三年後に起こった長篠の戦いで、似たような陽動作戦を用いて十倍返しをしたのでした。
長篠の戦いのもう一つの特徴は、鉄砲三千挺を使ったと言われていることです。
もしこれが事実だとすれば、織田、徳川勢は何発の玉を撃ち、どれくらいの鉛を消費したのでしょうか。
その答えを求めるのに参考になるのが、長篠の戦いに敗れた後に鉄砲隊の編成を急いだ勝頼が、鉄砲一挺につき三百発の玉を用意せよと命じていることです。
これが敵の装備に対抗するためだとすれば、織田、徳川勢も一挺につき三百発を持っていたと推測することができます。
三百×三千は九十万ですから、織田、徳川勢は一万五千の武田勢に対して九十万発の玉を撃ち込んだと考えられます。
鉄砲玉で一番軽いのは三匃玉(一一、二五グラム)です。全軍がこの玉を使っていたと仮定すれば、九十万発で、約十トンの鉛が必要だということになります。
しかもその七割ちかくが輸入品だと考えられていますから、海外貿易を掌握することが戦の勝敗に直結することが分かっていただけると思います。
第二の読み所は、細谷さんが指摘してくれた家康と女性たちの関わりです。
三方ヶ原の戦いに敗れた三十一歳から長篠の戦いが起こった三十四歳まで、家康は厳しい緊張状態にさらされつづけますが、その間にも三人の女性とロマンスを経験しています。
一人は従妹のお万の方で、家康は祖母の源応院に甘えていたようにお万の方の胸でやすらごうとします。お万は源応院の孫ですから、体付きや性格もよく似ているのです。
安部が「女性と絡まらせることで、新たな家康の造形ができる」と考えているのは、家康が駿府での人質時代に源応院に育てられたおばあちゃん子だからです。
家康は窮地におちいると左手の親指の爪を噛んだと言われますが、これはフロイトが唱えた心理性的発達理論の口唇期的性格によるものだと思われます。
また数多い側室の中でも、子持ちの寡婦をひときわ大切にしています。これもまさに甘えたい性格によるものだと考えられるのです。
そんな家康にとってお万の方は源志院の代役と言ってよく、心やすまる幸せな一刻を過ごしたことでしょう。
その結晶として子供が宿るのですが、生まれたのは双子(そのうち一人は結城秀康)でした。このことが二人の関係に暗い影をおとすことになったのでした。
もう一人はお愛の方(西郷の局)。二十歳で夫が戦死し、叔父にあたる西郷清員(きよかず)のもとでひっそりと暮らしていた時に家康と出会いました。
家康とお愛の方には、二代将軍となる秀忠や四男・松平忠吉が生まれていますから、二人の睦(むつ)まじさが偲ばれます。
そして三人目は、信長の妹お市の方です。
ルイス・フロイスが報告書の中で「信長の義弟である三河の国王(家康)」と書いていることは、第一巻のナビゲーションでも紹介させていただきました。
家康が信長の義弟と呼ばれるのは、お市の方との婚約が成立していたからだとしか考えられません。
その証拠となる資料や記録も、第五、六巻で紹介しますが、第三巻では岐阜城を訪れた家康が、信長に浅井長政と死別したお市の方を娶(めと)ってやれと迫られ、彼女の寝所に忍んでいくシーンを設定しました。
二人はずっと昔に枕を交わしたことがありました。その時はお市が子種を授けてくれと言って忍んできたのですが、家康は期待に応えることができませんでした。
そこで今度こそはとチャレンジしたシーンを、安部は次のように描きました。
<「十三年前の返礼でござる。今宵(こよい)は子種をさずけに参り申した」
返答はない。目を覚ましているはずなのに、お市は何も答えないまま身を固くしていた。
「浅井家ご一門の不幸は存じております。お市どのもさぞ苦しい日々を過ごされたことでしょう。及ばずながらこの家康、その苦しみから立ち直る手助けをさせていただきとう存じます」
男女の秘め事も、剣の勝負と似たようなものである。打ち込むのは今だという汐(しお)がある。家康はそれをつかみ、迷いなく夜着をめくってお市を背中から抱き締めた。>
第三の読み所は、家康と伯父の水野信元との関係です。
家康の母於大の兄である信元は、桶狭間の戦いの時に信長と通じていることを隠して家康をいいように操りました。
そして信長を勝利に導く働きをしたばかりか、家康を大高城から脱出させ、後には信長と家康の同盟の仲介役をつとめました。
こうした功を誇り、僭越な行動が目立つようになった信元を、信長は次第にうとましく思うようになり、巧妙な罠を仕掛けて罪におとし、家康に切腹させるように命じるのです。
家康は信長が二重三重の策を用いて信元を追い詰めていくことに反発と反感を覚えるのですが、すでに回りをがっちりと固められているので、命令に背くことはできませんでした。
実は不用になったり気に食わなくなった重臣や大名を、周到な計画を立てて追い詰めていくのは、信長の常套(じょうとう)手段です。
それでも忠誠を誓うようなら許してやり、家臣でいられるようにするし、反発して挙兵するようなら事前に講じていた策を発動させて亡ぼしてしまいます。
追い詰められていく伯父信元を見て、家康は信長の非情さと周到さを骨に徹して知るのですが、やがてその刃が自分の上に振り下ろされ、妻と子を殺さざるを得なくなるとは、想像さえしていなかったのでした。
(第三回 了 安部龍太郎著)