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家康 第二巻刊行に寄せて<三方ヶ原の大敗から家康が得たものとは>安部龍太郎著

Date:2020/08/06

 

著者による第二巻のナビゲーションをさせていただきます。

安部龍太郎は作家生活三十年の成果をかけて『家康』文庫本の六か月連続刊行を始めました。

第一巻は桶狭間の戦いで敗れた家康が、信長との同盟の証として嫡男信康と信長の娘徳姫の婚礼をおこなうまでを描きました。

つづく第二巻は家康が信長に命じられ、武田信玄と同盟を結んで今川家を亡ぼし、遠江を家康が、駿河を信玄が領有する密約を結ぶところから始まります。

しかしこれは家康にとって苦渋の決断でした。家康の正室、瀬名は今川義元の姪ですから、今川家を亡ぼすことに強く反対したのです。

家康は迷いに迷い、大樹寺の登誉上人に「欣求浄土(ごんぐじょうど)」をめざす生き方の基本を教えられることによって、今は信長の指示に従うしかないと決断します。

ところが戦国時代は非情です。

信玄はひそかに信長と連絡を取り合い、「両川(りょうせん)自滅の策」を持ちかけていました。今川、徳川を戦わせ、戦いつかれたころを見計って両家を亡ぼし、信玄と信長で遺領を分け合おうとしていたのです。

この空恐ろしい計略に対して、家康はどのように立ち向かうのか。それが第二巻の読みどころの一つになっています。

 

従来、武田信玄や上杉謙信は、軍略の天才とか偉大な為政者というイメージで語られてきました。しかしこれは江戸時代の儒教教育にのっとって作られた側面が大きいのです。

儒教では仁義礼智信をわきまえた者が成功をおさめる(あるいはおさめるべきだ)と教えていますので、『名将言行録』に記されたような名将の美徳ばかりを強調するきらいがありました。

ですから講談や軍記物に描かれたような人物像になってしまうのですが、実際の戦国武将はもっとシビアです。生きるか死ぬかの戦いの渦中にいるのですから、必要とあらば謀略や謀殺も決然とおこないました。
 

服部半蔵からの報告で計略を見抜いた家康は、これを打ち破るために果敢な外交戦に打って出ます。

信玄との盟約に従って今川氏真を攻めるふりをしながら、北条氏政と連絡を取って、北条・武田同盟を切り崩そうとします。

氏政の妹(姉ともいう)を妻にしている氏真を助け、武田信玄を追放した後には駿河一国を氏真に与えるという条件で、北条、今川、徳川の同盟を成しとげたのです。

このため東の北条、西の徳川に狭撃される危機におちいった信玄は、占領したばかりの駿府城にとどまることができず、甲府に引き上げざるをえなくなりました。

家康にまんまと裏をかかれた屈辱が、信玄に遠江攻略を決意させ、三年後の三方ヶ原の戦いにつながったのでした。

一方、家康は信玄への追撃の手をゆるめず、越後の上杉謙信と連絡を取って、武田領に攻め込ませようとします。

しかも興味深いのは、謙信と信長の和睦の仲介をすると持ちかけているばかりか、信玄と信長の同盟が破談になるように工作すると記していることです。

元亀元年(一五七〇)十月八日に謙信に送った起請文の中で、家康は次のように記しています。

 

<信玄手切れ、家康深く存じ詰め候間、少しも表裏打ち抜け、相違の儀ある間敷候こと。(信玄と断交したのはよくよく考えてのことだから、盟約にそむくことは絶対にありません)

信長、輝虎(謙信)御入魂(じっこん)候ように、涯分意見さるべく候。甲、尾縁談の儀も、事切れ候ように諷諫(ふうかん)さるべく候こと。(信長と謙信の仲がうまくいくように、信長に進言します。また武田家と織田家の縁談が破談になるようにそれとなく諫言いたします)>

 

この頃、信長の嫡男信忠と信玄の五女松姫の縁談が進んでいましたが、家康は破談になるように仕向けると謙信に約束しているのです。

実際にこの縁談は立ち消えになっていますから、家康の働きが功を奏したのかもしれません。

 

二つ目の読みどころは、家康が信長の上洛命令に従って初めて岐阜城や京都を訪ね、見聞と経験を広げることです。

信長に案内してもらって岐阜城の天守閣に登り、眼下の雄大な景色をながめながら、天下布武の計略を聞きます。

第一巻で男女の交わりをしたお市の方とも再会し、夫の浅井長政や娘のお茶々(後の淀殿)を紹介されます。

こうした場合、男は少なからず意識するものですが、お市の方は度胸がすわっていて、そうした様子は露ほども見せません。

信長は長政を「西の家康」にするためにお市の方を嫁がせたのですが、やがて長政は信長包囲網に取り込まれて信長を裏切ることになるのです。

京都では明智光秀や羽柴秀吉と会い、信長に従って初めて参内(内裏に上がること)するという光栄にも浴しました。

また宣教師のルイス・フロイスと会い、世界の情勢や最新の技術などについてつぶさに聞きます。

安部は二十一年前に『信長燃ゆ』を書き始めた時から、「戦国時代は世界の大航海時代の中でとらえなければ、本当のことはわからない」と言い続けてきましたが、家康とフロイスの問答はそれを象徴する場面になっています。

 

三つ目の読みどころは、信玄と家康の直接対決!! 三方ヶ原の戦いです。

三万二千もの武田勢を相手に、家康は一万余の軍勢をひきいて三方ヶ原に出陣し、生涯唯一と言っていいほどの大敗をきっします。

敗走する家康を守ろうとして一千余の家臣たちが討死し、家康自身も傷を負って浜松城へ逃げ帰りました。

家康はなぜ出陣し、どのように敗れ、敗走を余儀なくされたのか。安部はその謎を解き明かすために浜松駅前でレンタサイクルを借り、三方ヶ原の古戦場や都田川の周辺をつぶさに取材しました。

そしてわかったのは、三方ヶ原の台地の道が思った以上に平坦で、真っ直ぐ北西に向かっていることです。家康はこの道をたどって武田勢の後を尾け、都田川につづく坂道を下り始めた時に攻撃しようと考えます。

たとえ途中で気付かれても、武田勢が反転して攻撃してくるまでには時間がかかるので、そこを狙って攻撃すれば勝機はあると考えたのですが、信玄は思いもよらない手を打って待ち構えていたのでした。

負傷して浜松城へ逃げ帰った家康の肩を、お万が支えて奥に連れていきました。二人のやり取りを、安部は次のように描きました。
 

<「ご無事のお帰り、おめでとうございます」

お万がいち早く駆け寄って肩を支えた。

「お万か。わしは今日死んだ」

「何をおおせですか。こうしてご無事に」

「これはわしの命ではない。多くの家臣たちが身を捨てて生かしてくれたものだ」>


三十一歳の家康は、この時から死んだ者に恥じない大将となるために、新しく生まれ変わったのでした。

 

(第二回 了 安部龍太郎著 )