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『家康』第一巻刊行に寄せて <新しい歴史観で家康を語る> 安部龍太郎著

Date:2020/07/10

いつも当サイトをご覧いただき、ありがとうございます。

パソコン時代についていけないので、長らく記事を書かないでおりました。
ところがこのたび『家康』文庫版を全六巻、七月から十二月まで毎月発刊させていただくことになりましたので、巻ごとにナビゲーターをつとめさせていただきます。

刊行スケジュールは次の通りです。

 

第一巻「信長との同盟」 七月八日発売

第二巻「三方ヶ原の戦い」 八月六日発売

第三巻「長篠の戦い」 九月予定

第四巻「甲州征伐」 十月予定

第五巻「本能寺の変」 十一月予定

第六巻「小牧・長久手の戦い」 十二月予定

 

こう並べてみると、歴史に興味を持っておられる方はどの時代のことか見当をつけていただけると思います。

第一巻は家康が十九歳(数え年)で桶狭間の戦いに出て大敗するところから始まり、その二年後に信長と清州同盟を結び、五年後の永禄十年(一五六七)に嫡男信康と信長の娘徳姫の婚礼を挙行します。

家康は二十六歳、信長は三十四歳でした。

第一巻ではこの婚礼に際して、信長がお忍びで岡崎城までやってきて、家康と風呂に入ってこれからの戦略について語り合うところまでを描きました。

 

〈(信長の)股間の陽物も、惚れ惚れするほど見事である。

(おお、何と)

家康も人並み以上だと自負してきたが、これではとても敵わなかった。〉

 

そんな描写もありますので、お楽しみ下さい。

信長には分っているだけでも二十一人の子供がいますので、さぞ見事だっただろうと拝察しています。

 

安部龍太郎がなぜ家康の生涯を描こうと決意したのか。そのことについて書かせていただきます。

安部は作家としてデビュー以来三十年間、ずっと戦国時代に取り組んできました。
中でも信長の生き方を解明するべく、いくつもの小説を書いてきました。

ところが書けば書くほど信長が分からなくなるのです。
しかし長年の挑戦の甲斐あって、なぜ信長が分からないのか、その理由だけは分かるようになりました。

それは従来語られてきた戦国史観が根本的に間違っていたからです。
その間違いの最大の要因は、鎖国史観と士農工商の身分差別史観です。

 

徳川幕府は鎖国政策をとったために、戦国時代史も外国の影響を排除した国内のみの視野で作り上げました。
しかし戦国時代は世界の大航海時代に遭遇したことによって始まった時代ですから、この解釈が間違っていることは明らかです。

身分差別史観がなぜ生まれたかと言えば、幕府が農本主義政策をとり、経済格差を極力押さえようとしたために、商人や流通業者の活躍を不当に低く評価したからです。

しかし戦国時代は一五三〇年代に石見銀山の開発が進み、銀を海外に輸出することによって空前の好景気となった、高度経済成長時代でした。 
ですから商人や流通業者がもっとも活躍し、信長、秀吉、家康さえ背後で操るほどの力を持っていました。

その代表が南蛮貿易を牛耳る堺の納屋衆でした。

 

このことについては『信長はなぜ葬られたのか』(幻冬舎新書)、『信長の革命と光秀の正義』(同)、『対決! 日本史』(潮新書)などで書きましたので、そちらを参照して下さい。

 

こうした鎖国史観、身分差別史観を打破しようと、安部は信長の小説を書いてきました。
その集大成として『家康』を書くことにしたのは、家康が十九歳の桶狭間の戦いから七十四歳での大坂夏の陣まで、戦国時代後半から江戸時代初期までの主要な事件に主役として関わっているからです。

家康の生涯をつぶさに追えば、この時代がどう変わったかを俯瞰的に描き出すことができる。そう考えたのでした。

このことについて、第一巻の解説を書いてくれた澤田瞳子さんは次のように評してくれています。

 

<なぜ、戦国は乱世となったのか。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康がそれぞれ同時代の人々から抜きん出ることが叶ったのは、なぜか。
当時の「日本」の枠組みとは、諸外国との関係は。
そしてそもそも、「日本」とは何か____。

こういった問題意識なくして戦国に挑めば、この時代はただ多くの男たちが狭い国内で相争うだけのつまらぬ時世と化してしまう。
魅力的な戦国武将が数多い分、戦国時代そのものを描くのは、作家にとって実は非常に困難な業なのだ。

それだけに、徳川家康の名前を冠した本作を拝読した時、私は心底、仰天した。
家康という一人の男の生き様を縦糸に、これまでの戦国小説がすくい上げ得なかった骨太な歴史観を横糸に織り込んだ、戦国時代とは何かを問う一大歴史絵巻がそこに現出していたからだ。>

 

さすがに澤田さん、日本の歴史と文学をしっかりと認識した上での鋭いご指摘です。

僭越ながらこれまでこのような視点で歴史をとらえた作家は皆無に近く、安部龍太郎が何をしようとしているかを理解してくれた評論家や歴史学者も、あまりいませんでした。

ですから家康の生涯を描いた物語によって、そうした旧態依然たる読書界や歴史学界に革命を起こしたいという志で、この連作に挑戦することにしたのです。

 

第一巻は前にも記したように桶狭間の戦いから信康の婚礼までの物語ですが、従来の説とはまったくちがった解釈による読み所がいくつもあります。

その中から三点だけ紹介して、このつたないナビゲーションの結びとさせていただきます。

 

第一点は桶狭間の戦いの解釈です。

従来は今川義元の尾張侵攻に対抗するために、信長は捨て身の奇襲に打って出たと語られてきました。

しかし、それは完全な間違いです。
義元は清洲城主の斯波義銀らと結び、信長を三河方面に誘い出している間に、義銀に清洲城を乗っ取らせるという計画を立てていました。

そのために義元は海城である大高城に入り、鯏浦二の江の服部左京進がさし向けた一千艘の船で、一万ほどの軍勢を清洲城に向かわせようとしていたのです。

信長は義銀の側に配したスパイからの報告によってこの計画を知り、義元の進軍経路を完全に読み切った上で、一撃で仕止める計略を立てたのです。

 

第二点は、信長は義元を一撃で仕止めるために、どんな戦法を使ったかということです。

その秘密は鉄砲と三間半(約六、三メートル)の長槍の使用にあります。
信長が三間半の長槍を使ったという記録は『信長公記』にも記され、安土城考古博物館にはレプリカが展示してあります。

安部は初めてこれを見た時、こんな化け物みたいな長槍をどうして使ったんだろうと不思議でなりませんでした。
当時の歴史学者や歴史作家の方々は、槍は叩き合いに使うので長いほうが有利だと説いておられましたが、六、三メートルの槍を叩き合いに使えるはずがありません。

いったいどう使ったのかと考えていて、ようやく納得できたのは、スペイン陸軍のテルシオ部隊が、パイク兵と呼ばれる長槍隊とマスケット銃(火縄銃)隊を組み合わせた新戦法によってヨーロッパを席捲したと知った時です。

その陣形については、スマホでテルシオ部隊と入力すれば絵図が出てきますので、どうか検索して下さい。

信長は堺から鉄砲や弾薬を買いつける時、ポルトガルの商人や宣教師から、テルシオ部隊の戦法を教えてもらっていたはずです。
今日でも新しい製品を輸入する時には使用説明書がついてきますから、これは当然のことだと思います。

 

第三点は家康と信長の妹お市との関係です。

家康とお市は信長の意向によって婚約していたと、安部は考えています。
その解釈にそって二人の清冽(せいれつ)なベッドシーンも書きました。

それは単に小説的な趣向として描いたのではなく、しっかりとした史料的な裏付けがあってのことです。

その史料は物語が進むにつれて開示されていきますが、ひとつだけ有力な傍証を紹介させていただきます。

一五八二年十一月五日付でルイス・フロイスが書いた報告書の中に、本能寺を襲撃する明智軍の様子について、次のように記されています。

 

<さらに、全銃兵隊に火縄に点火し引鉄にはさませ、槍を準備するよう命令した。
家臣たちは、何事かと疑いはじめ、もしや信長の命令によって、明智は、信長の義弟である三河の国主〔徳川家康〕を殺害するつもりかと考えた>(『キリシタン教会と本能寺の変』浅見雅一著 角川新書)

 

「信長の義弟である三河の国主」という表現に注目して下さい。

家康が信長の義弟だとフロイスらに認識されていたのは、家康とお市の婚約が成立していたからだとしか考えられません。

しかもフロイスは信長との親交が深く、織田家の内情にも通じていたのですから、間違った情報を掲載したとは思えないのです。

家康とお市がそうした関係にあったとしたら、それ以後の歴史解釈は大きく変わります。
江戸時代や明治維新以後に作り上げられた歴史観など、一瞬にして崩壊させるほどのエネルギーを秘めているのです。

『家康』の物語の進展とともに、そうした醍醐味を堪能していただければ幸いです。

 

(第一回 了   安部龍太郎著) 

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