家康 第四巻刊行に寄せて<本能寺直前、信長が家康にだけ遺した2つのメッセージ>安部龍太郎著
著者によるナビゲーションも、いよいよ第四巻に突入しました。
今回も解説を書いて下さった大矢博子さんへの感謝と賛辞から始めさせていただきます。
大矢さんは『安部龍太郎は本シリーズで家康を「悲しみを知る」人物として描いている』と指摘し、悲しみを積み重ねてできあがる天下人―それが安部の描く徳川家康だと明言しておられます。
家康はそういう男でした。数々の苦難に直面しながら、「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」と覚悟を決め、「厭離穢土、欣求浄土」の理想をめざして歩き続けたのです。
そうでなければ、遺訓にあるような「おのれを責て人をせむるな 及ばざるは過たるよりまされり」などという心境に至ることはできなかったでしょう。
もうひとつ、大矢さんに感謝申し上げたいのは、「世界との関わりや経済から歴史を読み解いた安部史観」というように明確な定義をしていただいたことです。
これは批評家としてなかなか言いにくいことだと拝察しますが、大矢さんは持ち前の度胸と鋭い洞察力によって、「安部史観」というラベリングをしてくれました。
おそらく今後はこの言葉が一般的に使われるようになるでしょうし、そうした評価に恥じない仕事をしていかなければと肝に銘じています。
さて、恒例に従って第四巻の読みどころを三点、ご案内させていただきます。
この巻は天正四年(一五七六)から天正十年(一五八二)までの七年間、三十五才から四十一才までの家康を描いたものです。
読み所の第一点は、家康が正室の築山殿と嫡男の信康を、信長に命じられて殺さざるを得なくなったことです。天正七年(一五七九)のことで、築山殿は三十八才、信康は二十一才でした。
その頃家康は、長篠の戦いで痛打を与えた武田勝頼と、遠江の高天神城をめぐって熾烈(しれつ)な戦いを繰り返していました。
当時の高天神城は、城の南のふもとまで汽水湖が湾入した海運の要所でした。
武田家としてはこの城を維持しなければ、太平洋航路を用いて伊勢長島や紀州雑賀の一向一揆衆とつながることができなくなり、硝石や鉛の入手経路を断たれます。
つまり高天神城の攻防戦は、軍事物資の補強路をめぐる争いだったのですが、江戸時代に汽水湖が埋め立てられたために、こうした視点が失われたのでした。
家康は高天神城を落とすために、二重の付け城群(要塞網)を築いて攻め立てます。勝頼も城を守るために駿河の港から兵糧や弾薬の補給をつづけます。
にらみ合うこと三年。家康は甲州から遠征している武田勢の消耗(しょうもう)を待つ持久戦を展開しますが、勝頼も手をこまねいていた訳ではありません。
天正三年(一五七五)の長篠の戦いの時、勝頼は岡崎城に調略を仕掛けて大賀弥四郎事件を起こさせますが、家康はこの事件の清算をできないままでいました。
勝頼はその弱みに付け込み、築山殿や信康を味方に引き入れようと工作します。そのことが二人を殺さざるを得ない事件を引き起こしたのでした。
読み所の第二点は、高天神城が落城するまでの家康と勝頼の攻防です。
状況は家康の方が日に日に有利になっていきました。なぜなら勝頼が北条家との同盟を破棄し、上杉家と同盟を結んだからです。
原因は天正七年に起こった御館の乱にあります。上杉謙信の後継者の座をめぐって景勝と景虎が争ったこの乱において、武田勝頼は景勝を支援しました。そのために北条氏政の弟である景虎を自害させる結果を招き、北条家と敵対関係になったのです。
武田家は西の徳川と東の北条に挟撃されることになり、高天神城に救援の兵を送るどころか、駿河を維持することさえ難しくなりました。
しかも、天正八年(一五八〇)八月には勝頼が頼みの綱としていた大坂本願寺が信長と和議を結んだのですから、家康は一気に高天神城を攻め落とすこともできたはずです。
ところがそうはせずに、付け城を厳重にして城を包囲し続けたのは、妻子の仇である勝頼と勝負をして決着をつけるためでした。
高天神城を包囲し続けていれば、勝頼は武田家当主としての面目を守るために救援に出て来ざるを得なくなる。そこを急襲して後詰め決戦に持ち込もうとしたのです。
この挑戦に応じた勝頼は、天正八年(一五八〇)十二月十五日に二万の軍勢を率いて駿府城に入りました。このシーンを安部は次のように描きました。
<武田勝頼は十二月十五日に駿府城に入った。
総勢は二万。上杉謙信も援軍三千を出し、興国寺(こうこくじ)城(沼津市)に入って北条の急襲にそなえていた。
「武田勢はすでに持舟(もちぶね)城を修築し、軍船を集めております。十日のうちには出陣の仕度がととのうものと存じます」
服部半蔵が報告した。
「鉄砲隊の数はいかがほどじゃ」
家康はそのことが気になった。
「行軍中は隠しておりますので確かなことは分かりませんが、千五百ばかりではないかと存じます」
「鉄砲一挺(ちょう)につき、三百発の弾を持たせているそうだな」
「長篠の戦いに敗れた後、そのように命じております」
「さすれば四十五万発ということになる」
それだけの弾が自軍に向かって撃ちかけられるかと、家康は設楽ヶ原を埋めた武田勢の累々たる死屍(しし)を思い出した。>
ところが勝頼は高天神城に兵を進めようとはしませんでした。
家康の包囲網が厳重なのを見ると、長篠の戦いでのように大敗することを恐れ、天正九年(一五八一)一月十六日に甲斐に向かって退却していったのです。
旗を巻いて逃げるとはこのことで、勝頼の武将としての信用は地に落ちました。これ以後、駿河の国衆は武田家を見限り、雪崩(なだれ)を打って徳川方に内通するようになったのです。
岡部元信らを大将とする高天神城が落ちたのは、それから二ヵ月後のことでした。
第三点目の読み所は、織田信長による甲州征伐です。
武田勝頼の命運は、高天神城を見殺しにして退却した時に尽きていました。戦国武将としての誇りを捨て、配下からの信頼を失い、家中を統率する求心力を失っていたからです。
家康はこの機を逃さず駿河の国衆に調略を仕掛け、駿河一国を預かっていた穴山梅雪を身方に引き入れることに成功します。また、信濃の木曽義昌も勝頼を見限って信長に身方します。
これを好機と見た信長は、天正十年(一五八ニ)二月三日に甲州攻めの軍令を発し、嫡男信忠を先陣とする軍勢を進発させました。
勝頼は新府城に移って対抗しようとしますが、さらなる不運が武田家を襲います。二月十四日に浅間山が大噴火を起こし、甲斐国に甚大な被害を及ぼしたのです。
空は噴煙に、大地は火山灰に分厚く覆われ、勝頼はなす術もなく小山田信茂を頼って岩殿城に逃れようとします。ところが信茂にも裏切られ、三月十日に天目山であえなく敗死しました。
家康はその翌日に甲府に入り、三月十九日に上諏訪の法華寺で信長と対面しました。信長はこの寺に諸将を集め、武田領の分配と国の再建を申し付けます。
家康は駿河一国を拝領することになりましたが、思いがけない負担が待ち受けていました。信長が富士遊覧をして安土城に向かうと言うので、道中の警固や宿所の用意をしなければならなくなったのです。
四月十日に甲府を出発し、十八日に矢作川を渡ったところで警固の任を解かれるまで、家康は信長と二人きりと言ってもいい濃密な時間を過ごします。
旅の途中で信長は、家康にお市の方を嫁にしてくれと正式に頼みます。二人して入浴し、背中を流しながら語り合うシーンを、安部は次のように描きました。
<「竹千代、このたわけが」
信長は久々に幼名で呼び、ふいに体を入れ替えた。
そうして家康を板張りに押しつけ、何やら楽しげに背中を流し始めた。
「もったいない。恐れ多いことでございます」
「良いのじゃ。そちは余が見込んだ通りの男に育ってくれた」
それゆえひとつ頼みがあると、信長は仏像でも磨くように家康の背中を手拭(てぬぐ)いでこすりつづけた。
「お市のことじゃ。あれには長政(ながまさ)のことで辛(つら)い思いをさせた。前に岐車でも頼んだが、嫁にしてやってくれぬか」
「お、お市さまを、嫁に⋯⋯⋯」
「さすれば余とそちは本当の兄弟になる。同じ志を持って天下を築いていくことができる。それに知らぬ仲ではあるまい」>
二人きりの密談の場でもある風呂の中で、信長は二つの重大なことを家康に明かします。
ひとつは天下統一後の国家構造であり、もうひとつはイエズス会やスペインと断交した理由です。
そう。これこそが世界の大航海時代の中で日本が生き抜いていくための施策でしたが、あまりに急激な改革やキリシタン勢力との断交は多くの敵を生むことになり、二ヵ月後の本能寺の変を引き起こす原因になったのでした。
(第四回 了 安部龍太郎著)