家康 第五巻刊行に寄せて<光秀の背後に何があったのか?「本能寺の変」の真相>安部龍太郎著
今年七月から始まった拙著『家康』の連続刊行も、いよいよ十一月十一日に第五巻を出す運びとなりました。
これまでは単行本として刊行していた第一部「自立篇」、第二部「不惑篇」を二分冊にしたものでしたが、第五、六巻は第三部「知命篇」を文庫オリジナルとして刊行させていただきます。
三十年間の作家生活の中で初めてのことですが、家康と信長の関係を中心とした第一巻から第六巻までを文庫で一気に読んでいただいたほうが、読者の方々にも親しみやすいのではないかと考え、こうした形にしました。
それが吉と出るか凶と出るか、これからの『家康』刊行の行方を占う試金石となります。どうかよろしくお願いいたします。
第五巻の解説は藤田達生先生に書いていただきました。
戦国時代、中でも本能寺の変の研究においては本邦の第一人者で、明智光秀の決起の背後には将軍足利義昭の指示があったと、二十年以上前から主張してこられました。
近年になって『石谷家文書』などが発見され、それが事実であったことが立証されつつあるのは、藤田先生の研究のお陰だと言っても過言ではないでしょう。
この点について解説の中で次のように書いておられます。
本能寺の変に関する貴重資料が、近年相次いで発見されている。これからは、光秀のクーデターの正統性が足利義昭を奉じた幕府再興であったことと、加えて直接的なきっかけが長宗我部氏の滅亡を防ぐことにあったこと(四国説)があきらかになった。
安部さんは、研究情報のアンテナを張り巡らし、これらの発見をみごとに信長の天下統一のための二つの課題「将軍就任と西国征伐」とリンクさせて、本巻のメインストリームとして組み込んだのである。
藤田先生とは二十年ほど前に安土城歴史博物館で初めてお目にかかり、今日までご厚誼をいただいております。
歴史学の専門家でもない安部龍太郎が、歴史研究の最前線の情報にリンクしつづけることができたのは、先生とご一緒に旅をしたり酒を酌み交わしたりする折にご教示をいただいたお陰です。
この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。
さて、本能寺の変をめぐっては、長年にわたって論争がくり返され、多くの説が提示されてきました。
しかしその多くは歴史学の周辺にいる人たちによるもので、日本史や戦国史の専門家の研究は(藤田先生をのぞいて)ほとんどありませんでした。
戦国時代の画期となったこの事件を、なぜまともに研究対象にしないのか。それをタブー視する何らかの力が今も働いているのか、それとも本能寺の変の意味を理解する能力に欠けているのか。
その真偽は分かりませんが、多くの学者のこうした態度が、本能寺の変について面白おかしく語る好事家的な議論が百出した理由にもなっているようです。
安部は『信長燃ゆ』(新潮文庫)を書いた頃から、織田信長を理解するためには本能寺の変を正しく解明する必要があると考え、微力ながら勉強を続けてきました。
そうしてこうとしか考えられないという説を『家康』第五巻「本能寺の変」で提示しています。しかも従来の鎖国史観ではなく、世界の大航海時代の中で信長の死をとらえたところが、第一の読み所です。
以下、その概略を箇条書きによって記します。
本能寺の変の「原因」
(1)信長が太上天皇になる方針を貫こうとしたために、朝廷と足利幕府を中心とした保守勢力の反発を招いた。
(2)信長は天正九年(一五八一)にヴァリニャーノとの交渉にのぞみ、彼の要求を拒否してイエズス会やスペインと手を切った。そのためにイエズス会は新たな天下人を求めはじめ、羽柴秀吉に白羽の矢を立てた。
本能寺の変の「二重構造」
(1) 軍勢を動かして信長を討ったのは光秀だが、その背後には将軍である足利義昭、関白・太政大臣だった近衛前久がいて、信長を討って足利幕府を再興する計画を立てていた。
(2) 備中に出陣していた秀吉は、黒田官兵衛のキリシタン情報網、細川藤孝(幽斎)の朝廷情報網によって、前述の計画を察知し、本能寺の変が起こった直後に光秀を討って天下を取る計画を立てた。
そして中国大返しの支度をして、信長が討たれるのを待ち構えていた。
本能寺の変の「結果」
(1) イエズス会とスペインの支援を受けて天下人となった秀吉は、天正十四年にイエズス会の宣教師ガスパール・コエリョと会い、教会保護状を渡して布教と居住の自由を保障し、明国を征服してキリスト教化すると明言した。
(2) 秀吉は関白になって朝廷を意のままにすることで、信長が目ざした律令体制を手本とした中央集権的な天下統一を成し遂げた。
ところが明国征服(朝鮮出兵)を強行して失敗したために、豊臣政権が崩壊し、家康による地方分権的な徳川幕府が成立することになった。
第二の読み所は、信長が目ざしたのは律令制度を手本とした中央集権体制を築くことで、戦乱の世を終わらせることだと明記したことです。
これは近年の歴史の研究で明らかになった「預治思想」の源流に、信長の革命思想があったと位置づけたもので、決して荒唐無稽な思い付きではありません。
解説で藤田先生も説いておられますが、信長は大名が領地領民を私有して自己の勢力を拡大しようとする限り、戦乱の世は終わらないと見抜いていました。
そこで朝廷を中心とした律令制を復活させ、律(刑法)令(行政法)にもとづく法治国家を築き、公地公民制を採用して中央集権体制を確立しようとした。これは王政復古によって近代国家を築いた明治政府のやり方と同じです。
それにもうひとつ。信長が天下統一を急いだのは、西洋列強の進出に対抗するためで、これも明治維新が起こった状況とよく似ています。
安部は長い間、信長は何のために天下統一を目ざし、統一した後にどんな国家を築こうとしていたのか分かりませんでした。
研究が皆無に近く、多くの国民がそうした疑問さえ持たない状況だったからですが、近年ようやく「預治思想」の研究がなされるようになり、一気に疑問を解くことができたのでした。
これは今までなかった新しい考え方で、研究者の間でも賛否両論あるようですが、あと三十年もすれば学界の主流となり、信長理解の根幹をなすことになるでしょう。
第三の読み所は、家康とお市の方の恋が成就することです。
天正十年(一五八二)五月十五日、家康は甲州征伐成功の祝いと駿河拝領のお礼に安土城を訪ねます。そこでお市を嫁にするように信長に求められ、寝所に忍んでいくのです。
そのシーンを安部は次のように描きました。
次の間には夜具が敷かれ、枕が二つ並べてあった。家康は着物を脱ぎ下帯ひとつになって床に入った。お市は屏風の陰で支度をし、緋色の襦袢一枚になってやって来た。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
きちんと指をついて挨拶をした。
「こちらこそ、よろしく」
家康はあわてて身を起こして挨拶を返した。
何やら初な若者のようである。それが妙におかしくて、二人で顔を見合わせて笑った。
家康はお市を抱き寄せ、襦袢を肩からはずした。薄絹の衣が軽やかに滑り落ち、色白の肌と小ぶりの乳房があらわになった。
「お待ち下さい。髪を」
お市は豊かな黒髪をまとめ、枕元の乱れ箱に収めて横になった。
そうして目出たく枕を共にするのですが、思いもかけない不都合が家康に起こります。しかしお市には、それが家康の優しさゆえだと分かっていて、二人の心の結びつきはいっそう深くなったのでした
翌日、信長は家康や酒井忠次らを接待し、自ら焦がしをたて、二つに割った瓜を供し、女物の着物を引き出物として与えます。
このことは『信長公記』にも記されていますが、信長がなぜそんなことをしたのかについては誰も言及しないままでした。しかしこれこそ、家康とお市の婚約が成立したことを祝うための席だったのです。
平安時代には男が女の家に三日間通えば婚約が成立したと見なし、男を三日夜の餅でもてなし、三日夜の衣を男に持たせて帰す風習がありました。
信長がたてた焦がしは、炒った麦粉を葛湯でといたもので、餅の代わりだったと思われます。瓜は瓜二つという言葉があるように、夫婦和合を象徴する果物でした。そして女物の着物は三日夜の衣です。
こうしたもてなしをするのは女の父親の役目ですが、お市の父信秀はすでに他界しているので、信長が代役を務めることにしたのです。
これは二人の婚約が成立したことを公にする儀式であり、安土城に集まっていた大名や重臣たちにも伝えられたはずです。
それを聞いたキリシタンの誰かがイエズス会に知らせ、ルイス・フロイスの報告書にある「信長の義弟である三河の国王」という表現になったものと思われます。
(第五回了 安部龍太郎著)