家康 第六巻刊行に寄せて<逆臣・秀吉を追い詰めた「小牧・長久手の戦い」>安部龍太郎著
『家康』第六巻が十二月九日に発売されます。
安部龍太郎が徳川家康の生涯を描こうと挑んだ大河小説の第一部は、家康と織田信長の関係を中心にしたものでした。信長の存在なくしては家康は天下人たりえなかったと考えているからです。
第一巻の桶狭間の戦いから、第五巻の本能寺の変まで。西暦一五六〇年から一五八二年までの二十三年間を描いてきましたが、第一部のラストとなる第六巻では、本能寺の変の余波と言うべき甲斐、信濃での戦いや、秀吉との対決の物語になっています。
第六巻には国文学者の島内景二先生が、「長江(ちょうこう)は、おもむろに楚(そ)へと向かう」と題した素晴らしい解説を書いて下さいました。
そのことについては後述するとして、まず第六巻の読み所について紹介させていただきます。
本巻は第一章の「変の真相」において、家康が情報網を駆使して本能寺の変の真相を突き止めるシーンを描きました。
第五巻では、はっきりとしなかったところが、京都に配した密偵である音阿弥(おとあみ)の報告や、帰参した本多正信の分析によって明らかにされるのです。
第五巻のナビでも書きましたが、本能寺の変は二重構造になっています。
信長の方針に反発した近衛前久や足利義昭が、明智光秀に信長を討たせて足利幕府を再興しようとしたのが第一構造。その計画をいち早く察知した羽柴秀吉、がイエズス会やスペイン、キリシタン大名の協力を得て光秀を倒し、漁夫の利を得て天下を取ろうと動き出したのが第二構造です。
本巻の読み所の一つ目は、家康がその真相を知るシーンを、歴史的な資料を交えながら描いていることです。そしてこれを知ることで、家康は日本という国の本質と世界の状況を知るきっかけを得たのでした。
二つ目の読み所は、甲斐、信濃での北条家や上杉家との熾烈(しれつ)な戦いです。
信長の武田征伐の後、甲斐は河尻秀隆、上野(こうずけ)は滝川一益、信濃は森長可らに与えられましたが、本能寺で信長が討たれた直後から、北条氏政や上杉景勝らは示し合わせたように、織田領を狙って進撃を開始しました。
このために河尻は討死、滝川、森は領国を放棄して逃げ帰りますが、家康は甲斐、信濃を確保すべく出兵して、北条家、上杉家と対峙するのです。
中でも北条家は上野を制圧した後、甲斐を取ろうと北条氏直(氏政嫡男、母は信玄の娘)を大将とする二万の軍勢を送り込んできました。
家康は甲斐に一万二千余りの兵を配して氏直勢と戦いますが、背後からは武蔵や相模の北条勢二万五千が迫ってきました。
狭い甲府盆地にいて、三倍以上の敵に囲まれる絶体絶命のピンチでしたが、家康は鉄砲と長槍を組み合わせた信長ゆずりのテルシオ戦法と、信玄に倣(なら)った騎馬戦法を組み合わせ、北条勢を各個撃破して氏直を若神子(わかみこ)城に追い詰めます。
しかも信濃の国衆を味方につけて補給路を断つと、氏直はたまらず和睦を申し入れてきました。
そこで甲斐、信濃は徳川家、上野は北条家が領すると決めて和を結びました。また家康の娘督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせ、両家の関係を強固にしました。
注目すべきは甲斐に出陣中の家康のもとに、柴田勝家の妻となったお市の方から、鱈(たら)としじら織の反物と端綿(はわた)が送られてきたことです。
天正十年(一五八二)十二月十一日のことで、鱈は正月料理に、反物と端綿は綿入れの着物を作って寒さをしのぐようにという、女性らしいこまやかな気遣いです。
このことについて、家康に同行していた松平家忠は、日記に次のように記しています。
〈十一日、古府(甲府)へ出仕候、明日帰陣候への由仰せられ候。越前芝田(柴田)所より御音信候、進上物ししら三十巻、はわた五把に鱈五本也〉(『家忠日記』)
ある歴史学者の方は、これは秀吉と対立していた勝家が家康を味方にするために送ったものだと解釈しておられますが、「芝田所より御音信」という敬語の使い方に注目して下さい。
芝田を呼び捨てにし、音信を送った主に敬意を払っています。徳川家中の家忠がそんな配慮をする相手は、柴田家にはお市の方しかいないし、贈り物は女性らしい心遣いに満ちたものです。
安部は『家忠日記』のこの記述と、安土城での家康に対する信長の接待ぶり、そしてルイス・フロイスの報告書に「信長の義弟である三河の国王」と記されていることをもって、家康とお市の方は婚約していたと確信しています。
三つ目の読み所は、秀吉と家康が全面対決に及ぶことです。
秀吉は本能寺の変で信長が殺されることを知っていながら放置していました。現代の刑法で言えば「末必の故意」があった訳です。そして信長亡き後に天下を取ろうと、あらゆるところに手を回していました。
その詳細については第六巻にゆずりますが、そんな秀吉だけに天下取りへの行動は迅速でした。
キリシタン大名や細川幽斉を身方にして光秀を討ち果たし、朝廷を脅して御太刀の下賜(官軍の証)を受け、池田恒興らを懐柔して清洲会議で三法師(信長の孫)を織田家の跡継ぎにしました。
しかも家康とお市の方の仲を知っていながら、お市の方を勝家に嫁がせることによって家康の発言力を封じ、織田信孝(信長の三男)と勝家を挙兵させて亡ぼしてしまいました。
秀吉の次の狙いは、織田信雄(信長の次男)を屈服させて織田家から政権を奪うことでした。そのために朝廷や寺社、足利義昭まで利用してあの手この手で迫りますが、信雄は秀吉の真意を察して家康に助けを求めます。
そこで家康は織田政権を守るために挙兵することを決意し、小牧・長久手の戦いに臨んだのでした。そして、三河に侵入しようとした秀吉勢を追撃し、一万五千の敵を討ち取る大戦果を挙げたのです。
明治維新後、家康を否定し秀吉を称揚する必要に迫られた明治政府は、秀吉勢の戦死者を二千から三千と低く見積もっていました。しかし先に紹介した『家忠日記』には、
〈敵先勢池田勝入(恒興)父子、森武蔵守、その外一万五千余討取候〉
そう明記されています。
外交戦において苦杯をなめつづけてきた家康は、実戦において秀吉より圧倒的に強いことを証明したのでした。
さて解説を書いていただいた島内先生のことですが、安部が先生と初めてお目にかかったのは、もう二十七年も前のことです。
『関ケ原連判状』(集英社文庫)に取り組む時、古今伝授に詳しい方を紹介してほしいと編集者に頼むと、電気通信大学で教鞭を取っておられた島内先生を紹介してくれたのです。同じ歳、同じ九州出身ということもあって、それ以降親しくしていただくようになりました。最初に大きな影響を受けたのは、先生が『剣と横笛—「宮本武蔵」の深層—』(叢刊・日本の文学20 新典社)で展開しておられる「話型」という考え方でした。
どの民族にも特有の話型があり、その国の文学や物語を形成する基礎になっているというもので、実作者としていろいろとうなずけることばかりでした。
それ以後、個人的な付き合いの上でも作品の批評においても、安部の深層心理と未来の可能性にまで及ぶ的確なご指摘をいただき、改めて気づかされたことも数多くありました。
第六巻の解説においても、次のように指摘していただきました。
山岡荘八の『徳川家康』が、戦後の日本社会と経営者に指針を提供したとすれば、安部龍太郎の『家康』は、グローバリゼーションに覆われた二十一世紀の世界情勢を踏まえ、「世界の未来に向けて、日本は何をできるか」を問う、壮大なテーマを設定した。
これは作者の意図を恐ろしいほど的確に見抜いたご指摘で、安部自身がこの一文を読んで「そうそう、そうなんだよな」と気づかされたほどでした。
それは家康の生き様にも関わる問題です。
彼は登誉上人にさとされて「欣求浄土」の夢を実現するために生きる決意をしました。そしてこの世を浄土に近づけるためには、人間の敵意と欲望(エゴイズム)を制御できる体制を築き上げなければならないと気づいたのです。
そうして作り上げたのが幕藩体制で、日本に二百六十年近い平和の世をもたらしました。
そして今、人類は敵意と欲望を制御できないために、滅亡の危機に瀕しています。敵意を制御できないために膨大な核兵器を保有し、欲望を制御できないために環境破壊や絶望的な格差を生み出しています。
家康が築き上げた幕藩体制は、こうした状況から世界が抜け出すためのヒントになるのではないか。そこに至った家康の一生を描くことは、現代人に生きる指針を示すよすがになるのではないか。
そんな思いが『家康』に取り組み始めた時から漠然とありましたが、島内先生のご指摘によってそのことをはっきりと自覚したのでした。
『家康』の第一部「信長篇」は第六巻までで終わります。
しかし今後も「秀吉篇」「天下統一篇」とつづける予定です。文庫本であと十二冊になりそうなので、命があるうちに擱筆(かくひつ)できるか不安ですが、登誉上人の数えの通り一歩でも半歩でも理想に近づく努力をつづけるつもりです。
ご愛読いただいた皆様、そしてこれから読んでいただく皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます。
〈人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず〉(『徳川家康遺訓』)
ありがとうございました。
(第六回了 安部龍太郎著)