『等伯との旅』 第三十五回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第35回「絶望を乗り越え」
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等伯はお題目をとなえるうちに、自分の苦しみや絶望を相対的にとらえることができるようになり、新しい気力がわき上がるのを感じた。
もう一度絵筆を取り、山水図の中心をなす雪山と霧に煙った松林を新たな気分で描き始めた。
そうして自分が本当に描きたかったのは、久蔵と見た七尾の海の霧の情景ではなく、十一歳の冬の朝に見た気嵐(けあらし)だと気付いた。
この日等伯は実父から長谷川家へ養子に行けと告げられた。武士として失格だと烙印(らくいん)を押されたと思った等伯は、辛さと悲しみに打ちのめされて明け方に家を飛び出した。
初冬の七尾の海には、一面の気嵐が立ちこめていた。後から後からわき立つ霧が、北風に吹き散らされて濃淡さまざまにただよっていた。
それを見ているうちに辛さや悲しさ、悔しさや怒りは消え失せ、天地の間にたった一人で投げ出されたような寒々とした孤独にとらわれた。
人は独(ひと)りで生まれて独りで死ぬ。その現実を突き付けられて足がすくんだが、風に吹かれて刻々と姿を変える気嵐を見ていると、心がしんと鎮まっていった。
(あの景色こそが、初めて触れた虚空会だった)
等伯は忽然(こつぜん)とそのことに気付き、自分の絵に何が足りないか、はっきりと分ったのだった―。
私が松林図屏風を初めて見たのは、二〇一〇年に東京国立博物館で行われた『没後四百年特別展』でのことだった。
等伯の物語を書こうと決意して資料集めや取材をしていた頃で、興奮と緊張に胸をときめかせながら長い列に並んだが、実物から受けた衝撃は想像をはるかに越えていた。
これは風景画ではなく宗教画だ。遠くに見える雪山は涅槃(ねはん)であり、雪と霧の中に立ちつくす松たちは、この世の役目を終えて涅槃に向かう人々である。
直感的にそう感じた。そして自分もこの絵の中に入り、涅槃に向かって一緒に歩き出していく。心がそこへ連れて行かれそうな気がした。
(これだ)
物語のクライマックスは等伯がこの絵を描くシーンにしよう。そう決意して二つのことに取り組んだ。
ひとつは円山派の絵師に、水墨画の手ほどきを二年間受けたことだ。松林図がどんな手順や筆使いで描かれたか知らなければ、この絵に取り組む等伯をリアリティ豊かに描くことはできないからである。
もうひとつは法華経について学ぶことである。等伯は絵仏師だったし、松林図は宗教画なのだから、法華経を知らずして等伯の内面は描けない。
そう思って勉強を始めたが、法華経は難解でなかなか理解できない。そんな苦難に直面していた時、如来使の如く現れてくれたのが植木雅俊先生だった。
先生は『法華経』を日本で初めてサンスクリット語から日本語に直訳された方である。岩波書店から出版された本は、従来の漢訳をへて日本語にされたものよりはるかに分かりやすい。
しかもご本人と直接会って教えを乞う機会が何度かあり、何とか松林図に込められた法華経の精神を理解することができたのだった。
文禄三年(一五九四)八月、伏見城への移従(わたまし)がおこなわれた。
数千の軍勢に守られた秀吉は、聚楽第(じゅらくだい)を出て大和街道を南に向かい、指月(しづき)山にきずいた伏見城に入った。
移従を祝う酒宴が大広間で行われている。等伯は案内の者にうながされ、松林図をたずさえて大広間に入った。
百畳ちかい大広間は目もくらむばかりの豪華さである。左右には松や虎の金碧障壁画がつらなり、折り上げ格天井には格子ごとに色鮮やかな花を描いている。
まるで黄金の箱のような大広間も、秀吉や有力大名たちも、もはや等伯の眼中にはなかった。天空の高みで法を説かれる如来の姿を思えば、この世をうつろう影としか見えなかった。
等伯が絵を持参したことを告げ、松林図屏風を立てると、霧におおわれた松林が忽然と姿を現した。
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北國文華 第78号(2018年12月 冬号)掲載原稿より
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