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等伯との旅

『等伯との旅』 第三十六回(最終回)【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2020/02/21

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第36回(最終回)「「松林図」に魂奪われ」
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 霧は風に吹かれて刻々と動き、幽玄の彼方へ人の心をいざなっていく。それは絶対的な孤独を突き抜け、悟りへとみちびく曼荼羅である。

 この絵が与える真実の安らぎの前では、絢爛(けんらん)豪華な障壁画や格天井に描かれた花々は色を失っていくようだった。

 大広間は寂(せき)として声もない。秀吉も徳川家康、前田利家らそうそうたる大名たちも、魂を奪われたように松林図に見入っていた。

 「等覚一転名字妙覚(とうかくいってんみょうじみょうかく)やな」

 近衛前久が誰にともなくつぶやいた。

 これは初心にかえることの大切さを説いた法華経の教えである。等伯が初心にかえり、普遍(ふへん)的なところに突き抜けたことを、前久はいち早く見て取ったのだった。

 「わしは今まで、何をしてきたのであろうな」

 秀吉が金盃の酒をひと息に飲み干し、深いため息とともにつぶやいた。

 「拙者とて同じでござる。心ならずも多くの者を死なせてしまいました」

 家康が涙を浮かべ、人目もはばからずに懐紙でぬぐった。

 それを合図にしたように、方々からすすり泣きの声が上がった。

 戦国の世を血まみれになって生き抜いてきた者たちが松林図に心を洗われ、欲や虚栄をかなぐり捨てて在りのままの自分にもどったのである。

 秀吉は等伯に歩み寄って褒美の盃を与え、久蔵の一件も忘れてはおらぬと言った。

 事件の真相を調べ直させるという意味だが、等伯はもはやそのことを忘れていた。松林図を描けたことが、久蔵への何よりの供養だと思っていたのだった。

 それから十六年。七十二歳になった等伯は、徳川家康に招かれて江戸に向かった。

 秀吉が死に、関ケ原の戦いで東軍が勝ち、今や徳川幕府の世になっている。家康が等伯を招いたのは御用絵師として長谷川派を起用するためだったと思われるが、等伯に余命は残されていなかった。

 江戸に着いた数日後に他界したのである。

 私は等伯の長い物語を、江戸に向かうために京都を発つシーンで締めくくった。それは次のような一文である。

 〈等伯は駕籠の戸を細目に開けて都大路をながめながら、静子と久蔵をつれて七尾を出た日のことを思った。

 あれから四十年、長いようにも一夜の夢のようにも思える。絵師として歩んだ道に悔いはないが、生まれ変ったらもう少しいい絵が描けるようになりたかった。

(これが最後になるかもしれぬ)

 等伯は戸を開け放ち、都の情景を目に焼きつけておこうと、太股の上で素描の指を走らせた。

 早春の風が耳をかすめて吹きすぎていく。新芽の匂いのする風の中から、ふと清子の声が聞こえた。

 「すみません。業が深くて」〉

 このラストシーンについて、『等伯』(文春文庫)の解説の中で、島内景二氏は次のように評してくれた。

 〈『等伯』の最後で、等伯は江戸へと向かう。だが、残酷な歴史は等伯に、江戸で新しい芸術を創出する余命を与えなかった。その使命は、これからの安部龍太郎の作品が、受け継いでくれる。『等伯』は、更新した安部文学と日本文化の原郷となる。〉

 過分のお誉めだが、こうした期待に応えられるように、これからも精進をつづけていきたい。

 十二回にわたる連載にお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。

(おわり)

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   北國文華 第78号(2018年12月 冬号)掲載原稿より
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