『等伯との旅』 第三十二回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第32回「親子二人帰郷の旅」
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こうして親子二人、絵師二人の帰郷の旅が始まった。
京都から大津に出て船で琵琶湖をさかのぼり、塩津から敦賀に向かう街道をたどっていく。
この道は「ふるさとを見て死にたい」と望む瀕死(ひんし)の妻静子を荷車に乗せて通った所で、あたりの景色を見ればその時のことが思い出されて胸が痛む。
そして七尾に着けないまま静子は敦賀の妙蓮寺で他界したが、等伯は十四年の間供養もしてやれないまま遺骨を寺に預けていたのである。
そのことを住職にわびて遺骨を引き取り、七尾に連れて帰ることにした。
そして敦賀から船で羽咋に着き、船宿の的場屋に泊まった。二十二年前、等伯が静子と幼い久蔵を連れて上洛する途中に泊めてもらった宿である。
この時も静子は病みついた。父母を死なせ七尾を追われた心労が、一度に出たのである。
等伯はまわりの者が不幸になるのは、自分が絵に対する執着にとらわれているからだと猛省し、もう絵筆を折ろうと決意する。
すると静子は病気が治るように、気多大社に櫛(くし)を納めてきてくれと頼む。等伯は久蔵をつれて大社に行き、その一角にある正覚院で自分の作品と出会う。
二十六歳の頃に納めた十二天像で、その素晴らしさに胸を打たれた等伯は、たとえ執着だとしても自分には絵を描くしか生きる道はないと決意する。
静子はそうなることが分かった上で、大社に櫛を納めてきてくれと頼んだのだった。
その思い出の地を二十二年ぶりにたずね、久蔵と十二天像を見た等伯は感無量だった。
「凄い。今の私の歳で、父上はこんな絵を描いておられるのですね」
久蔵が感動に蒼ざめて十二天像を見上げた。
「昔、二人で見に来たなあ。静子が櫛を納めてくれと言うものだから」
「母(かか)さまは神さまを見てきなさいと言われました。あれはこの絵のことではなく、父上のことだったかもしれません」
私はこのシーンを書く時、ある願いを込めていた。というのは、私にも等伯と同じように小説に対する執着があるからだ。
妻と二人の子がありながら、プロの作家になるために勤めていた区役所を退職した。そうして一円の収入もないまま、二十九歳からの四年間を過ごしたのである。
幸い三十三歳でデビューできたものの、その間家族のことはなおざりにしていた。
プロになって金を稼ぐことが家族のためだと奮起(ふんき)したことはあったが、一方ではプロになれないのなら生きていても仕方がないという思いも強かった。
そうして生み出した作品を、いつの日か子供たちが認めてくれたならどれほど幸せだろう。そんな憧憬(しょうけい)が、親が聞いたら泣けるようなセリフを久蔵に言わせたのだと思う。
羽咋を出た等伯と久蔵は船で邑(おう)知(ち)潟(がた)を渡り、ふるさと七尾に足を踏み入れた。ところが懐かしいふるさとは、すっかり変わっていた。
七つの尾根を持つ城山にあった七尾城は消え失せ、城下にあった町は見る影もないほどさびれている。
能登の領主となった前田利家が城を小丸山に移し、港の側に新たな城下町をきずいたからである。
かつて長谷川家があった所も更地になり、養祖父無分が植えた桜だけが枝葉を茂らせ、かつての面影を残していた。
等伯は長谷川家の移転先をたずね当て、叔父の宗高に静子の遺骨を菩提寺の長寿寺に納めさせてもらいたいと頼んだ。
宗高は静子の父宗清の弟で、二十二年前に等伯一家が七尾を追放された時には、親族の代表となって手厳しい仕打ちをした。
「ご無沙汰しております。信春と悴(せがれ)の久蔵でございます」
「お前か。何しに来た」
宗高の冷ややかな態度は、七尾を出て行く時と変わらなかった。
「静子の遺骨を、長寿寺さんに納めさせていただきに参りました」
「今頃帰ってきて勝手を言うもんや。ええ身分やの」
「早く供養をと思っていましたが、事情があって果たせませんでした。申し訳ありません」
「店は(悴の)宗冬が立派に守っとる。お前は都で名を上げたそうだが、七尾と先祖を守りぬいたんやさけ、宗冬の方がどれだけ偉いか知れん」
宗高はそう突き放したが、納骨だけは許してくれたのだった。
長寿寺に行くと本延寺の日便(にちべん)上人がいた。
本延寺は等伯の実家である奥村家の菩提寺で、日便上人は二十二年前、等伯が上洛する時に本山本法寺への紹介状を書いてくれた恩人だった。今は長寿寺の住職がいないので、掛け持ちで住職をつとめているという。
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北國文華 第77号(2018年9月 秋号)掲載原稿より
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