『等伯との旅』 第三十一回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第31回「ふるさとへの旅」
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長らくお付き合いいただいた等伯との旅も、あと二回を残すのみとなった。
その間に書くべきことは、長谷川等伯の息子久蔵(きゅうぞう)の死と松林図屏風の完成である。
将来を嘱望(しょくぼう)していた久蔵が二十六歳の若さで急死した失意と絶望が、等伯に松林図屏風を描かせるきっかけになったことは、美術史界の常識となっている。
しかし久蔵がどうして死んだのか、二人はどんな問題に直面し、等伯はどんな状況でこの名作を完成させたのか。そうしたことを記した記録はほとんど残っておらず、確かなことは何も言えない。
だが小説家は、分からないからといって物語を途中で切り上げるわけにはいかないので、小さな情報のかけらを拾い集めて、この場面を描くという難題に挑戦することにした。
この物語に取り組むと決めた時から、私は松林図を描く場面をクライマックスにすると決めていたが、いよいよ最後の胸突き八丁にさしかかったのである。
息子久蔵の死の真相
手がかりは二つあった。
ひとつは等伯が上洛当初から身を寄せていた京都の本法寺に、久蔵は狩野派によって殺されたという言い伝えが残っていることだ。
等伯が描いた『大涅槃(ねはん)図』や、日通上人が記した『等伯画説』を相伝しておられる寺だけに、言い伝えの信憑(しんぴょう)性は高い。
もうひとつは史料を調べている時に、久蔵は狩野派と共に、肥前名護屋城の障壁画を描く仕事をしていたという記述に出会ったことだ。
久蔵が死んだ文禄二(一五九三)年六月には、秀吉が名護屋城で明国の使者と対面し、和平交渉を始めていた。その前に城を飾り立てる作業を急がせたという記録があり、久蔵や狩野派が動員された可能性は充分にある。
(よし、これでいこう)
私は二つの手がかりをつなぎ合わせ、久蔵は秀吉に命じられて名護屋城で仕事をしていた時、狩野派によって殺されたという設定にすることにした。
その上でどんな殺され方をしたのかという細部(ディテール)を考え、城の外壁に龍虎の図を描いていた時、狩野派の手の者が足場の綱に切り込みを入れ、崩落するように仕組んでいたということにした。
事故に見せかけて殺せば、自分の過失ということになり、犯人に追及の手がおよぶことはないからである。
この工作に気付いた等伯は、京都奉行の前田玄以(げんい)に取り調べてくれるように頼むが、遠く離れた肥前でのことなので玄以には手の打ちようがなかった。
しかしこのままでは久蔵が浮かばれないと思った等伯は、秀吉に真相を究明するように直訴するのである。
これが秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、天下一の名画を描かざるを得ない立場に追い込まれる。そうして完成させたのが松林図だと、構想はトントン拍子にふくらんでいったが、その前に等伯と久蔵に幸せの時間を持たせてやりたくなった。
そこで二人して七尾に帰る場面を描き、ふるさとの懐に抱かれながら、旧知の者たちと再会させることにしたのだった。
文禄元(一五九二)年九月から名護屋城の仕事に行っていた久蔵が、久々の休みをもらって戻ってきたのは翌年の四月だった。
久蔵は二十歳、等伯は五十五歳。石もて追われるように七尾を出てから二十二年がたっている。
後妻に迎えた清子との間に四つになる宗也がいて、この春に二人目の左近が生まれた。久蔵が帰ってきたのは、それを祝うためでもあった。
久々におとずれたおだやかな日々が、等伯に七尾に帰ってみようという気を起こさせ、久蔵を誘ってみることにした。
「それなら七尾に行こう。ちょうど青(せい)柏(はく)祭(さい)の頃だ」
「いいですね。ぜひお供させて下さい」
久蔵は喜んで同意したが、清子が嫌な思いをするのではないかと気遣った。
「あれはそんな了見(りょうけん)の狭い女房ではない。かえって親戚へのみやげだの寺への供物(くもつ)だのと大騒ぎするだろう」
二十二年ぶりの帰郷である。等伯の心はすでに七尾に向かって飛び立っていた。
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北國文華 第77号(2018年9月 秋号)掲載原稿より
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