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等伯との旅

『等伯との旅』 第三十回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2020/01/03

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第30回「久蔵が自分と向き合う旅に」
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 等伯が楓を描こうと思ったのは、久蔵の桜に拮抗(きっこう)するものにしたかったからである。

 「楓はどうだ。秋野の草の中に立つ楓」

 「いいですね。負けませんよ」

 「望むところだ。こう見えても、お前の父は手強(てごわ)いぞ」

 そんな幸せな張り合いをしながら下絵の製作にかかったが、久蔵の描く松はいまひとつだった。狩野派の端正で上品な画風を身につけているだけに、そこから脱却できないのである。

 「それは狩野派のやり方だ。見た目は美しいが、松の持つ我慢強さや命の輝きが感じられない」

 「それなら、どうすればいいのですか」

 何度描いても駄目だと言われ、久蔵は煩悶(はんもん)のあまり家を飛び出した。

 妻の清子は気を揉んで、捜しに行かなくていいのかと言ったが、等伯は「ほっておけ」と突き放した。

 表現者は孤独である。誰とも違う、誰にも真似のできない境地をめざして、たった一人で求道(ぐどう)の道を歩きつづけなければならない。久蔵はその境地をめざして、自分と向き合う旅に出たのだから、心配をじっとこらえて待つしかなかった。

 その間に等伯は松に秋草の下絵を描くことにした。久蔵が帰ってきたなら、これが手本だと突き付けてやろう。そう思いながら、巨大な松の枝の下に咲き誇る木

槿(むくげ)や菊、芙蓉(ふよう)などを描いたが、松と草花の大きさの均整を取ろうとすると、草花を小さく描かざるを得なくなる。

 それでは草花の命の輝きを表現することができないと苦慮(くりょ)しているうちに、ふと禅画のことに思い当たった。禅画はすべてを簡略(かんりゃく)化し、図案化して物事の本質を写し取る。それにならうなら、松と草花の大きさの均整を気にする必要はないと分かったのである。

 久蔵は一月半ほどして戻ってきた。頬がこけ目が落ちくぼみ、月代(さかやき)もひげも伸び放題だが、手にした画帳だけは真っ白で手垢ひとつついていなかった。

 「これです。見ていただけますか」

 差し出された画帳を見て、等伯は息を呑んだ。巨大な松と立葵の図が、両者の大きさの均整を無視して描かれている。等伯がつい先日発見した画法を、久蔵も独力で身につけていたのだった。

 「今までどこにいた。どこでこれだけの絵を身につけたのだ」

 「敦賀です。母(かか)さまにつれて行ってもらった気比の松原で、じっと松を見ていました」

 松林には秋草が生えていた。目の前の草花と向こうの松を見ているうちに、遠近の感覚にとらわれず、見えているように描けばいいと思いついたという。

 「そうか。気比の神さまと母さまが、お前を助けてくれたのだ」

 均整を無視して木と草花を対置する方法は、楓と桜の図にも生かされた。

 等伯は画面の中央に配した楓の巨木の下に、咲き誇る草花を配して秋の野山の豊かさを表現した。

 久蔵は咲き誇る八重桜を柿の実ほどの大きさに描き、画面一杯にちりばめて春の華やかさを強調した。

 いずれも現実にはありえない光景だが、卓越した図案が、本物よりいっそう鮮やかに楓や桜の美しさをとらえていた。

 翌年三月、祥雲禅寺の方丈は無事に完成し、等伯と久蔵の絵は鶴松の法要に集まった者たちの目を釘付けにした。まさに浄土の景色だと、驚嘆し絶賛する者が後を断たなかった。

 狩野派を押さえて長谷川派の時代が来たことを、等伯と久蔵は己れの絵筆で天下に知らしめたのだった。

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   北國文華 第76号(2018年6月 夏号)掲載原稿より
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