『ルポ 安部龍太郎の創作世界』~「十三の海鳴り」を歩く~ 第4回
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■ 『ルポ 安部龍太郎の創作世界 』 ~「十三の海鳴り」を歩く~
■ 第4回 経済基盤の大きさ確信
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十三湊、折曾の関
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2017年10月末、安部龍太郎はやや冷たい風が吹く晚秋の奥津軽にいた。五所川原市 市浦地区の丘陵地帯にある「唐川城跡」は、安藤氏ゆかりの地。標高160㍍の展望台にたたずみ、眼下の十三湖 (かつての十三湊)を眺めながら新作小説のイメージを膨らませていた。
十三湖の先には、なだらかな曲線を描いた七里長浜がかすかに見える。白波立つ日本海の向こうに安藤又太郎季長の根拠地・折曾の関(深浦町)、そのさらに先には安藤氏の交易船が立ち寄ったであろう能代(秋田県)や小浜(福井県)へとつながる“海の道”が脳裏に浮かんだに違いない。
十三湊を出た朝日丸は、七里長浜ぞいに南に向かった。/外洋に出れば北に向かって流れる対馬海流に押しもどされる。それを避けるために地乗り、沿岸に近い所を進む航法を用いていた。/後ろからアイヌの五人が乗った板綴船がついて来る。丸木船の船縁に板を立てて大型化した細長い船で、波にあおられて左右に激しく揺れている。/(中略)安藤新九郎季兼は舵取りの弥七の側に立ち、飽きずにアイヌの操船ぶりを見ていた。
(「小説すばる18年5月号」集英社)
安部は、南北朝時代の軍記物語「太平記」に着想を得た小説の執筆を“安部版太平記”として、ライフワークにしている。これまでに出版した「道誉と正成」(09年)、「義貞の旗」(15年、ともに集英社刊)の2作に続く第3弾として構想したのが、安藤氏の内乱に端を発し、鎌倉幕府滅亡の一因とされた「津軽の大乱」(1320~28年)だった。
ただ、大乱やその当事者の安藤氏に関する資料は少なく、登場人物のキャラクターや細かなストーリーは一から構築しなければならない。 主人公の設定さえ決めかねていた中、わらをもつかむ思いで計画したのがこの旅。わずか2日の日程だが、安藤氏の影を追うように十三湊と津軽地方に点在する関連史跡、内真部(青森市)、阿曾米(中泊町小泊)、尻引(弘前市)などを巡った。
移動のジャンボタクシーの車内では、同行した東北中世史研究の第一人者・斉藤利男(68) =弘前大学名督教授=に、安藤氏の経済的基盤や交易のルートについて熱心に尋ねた安部。斉藤が一つ一つ丁寧に答え、学者の立場からアドバイスをすると「これだけの規模の城郭を広範囲にわたって造ることができたのは、当時の北方一帯に大きな経済圏があったからに違いない。津軽の大乱を地方の視点で捉えるのではなく、日本全体の問題として捉えることで新たな歴史の視点を提供できます」と力を込めた。
旅の終盤には「日本海交易の痕跡を確かめたい」と強く希望し、東京への帰路を青森空港からではなく、西海岸を経由して秋田空港へと向かった安部。折曾の関に立ち寄った際、斉藤が「天候のコンディションが良ければ、真正面に北海道が見えます。つまり、当時はここから真っすぐ北に向かえば蝦夷地にたどり着くことができたということなんです」と説明すると、目の前の日本海をじっと見つめながら「安藤氏がここに拠点を構えた理由が分かる気がします。小説のイメージが湧いてきました」と満足そうにうなずいていた。
安部の帰京後間もない11月中旬、集英社の担当編集者から本紙に届いたメールには「タイトルは『十三の海鳴り』になりそうです。構成をつめている段階ですが、すでに大作の予感。楽しみです」とあった。
(敬称略、成田亮)
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東奥日報2018年7月5日掲載
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