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ルポ 安部龍太郎の創作世界

『ルポ 安部龍太郎の創作世界』​~「十三の海鳴り」を歩く~ 第2回

Date:2019/11/01

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■ 『ルポ 安部龍太郎の創作世界 』 ​~「十三の海鳴り」を歩く~ 

 第2回 深い堀跡 大乱の舞台?
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   内真部城館群(青森)
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 5月9日午前、安部龍太郎と集英社の担当編集者ら一行を乗せたジャンボタクシーは青森市の国道280号油川バイパスから脇道にそれ、細長い農道に入った。

 

「あの小高い山が内真部館があったところです」。

 

 北へ向かって真っすぐ延びる北海道新幹線の高架橋の向こう、津軽半島の中央を貫く津軽山地が正面に見えてくると、アドバイザーとして同行した東北中世史研究の第一人者、弘前大学名誉教授の斉藤利男(68)の声のトーンが上がった。

 

 内真部館は、鎌倉幕府滅亡の一因とされる安藤氏の内紛「津軽の大乱」の当事者の一人、安藤五郎季久の居館だったとされる場所。青森市中心部から車で北西に30分ほど、JR津軽線奥内駅からは西に約2.5㌔の丘陵地帯に位置する。現在、往時をしのばせる構造物は残っておらず、草木に埋もれた古い標柱が1本、道路端にあるのみ。研究者以外に訪れる人はほとんどなく、地元民にも忘れられた存在になっている。

 

 地形的には、津軽山地から陸奥湾に注ぐ内真部川が南側を流れる、標高15㍍ほどの台地の先端を利用して造られている。海岸線からは3㌔ほど内陸に入った場所にあり、蝦夷地との交易の拠点というよりは、季久の平時の住居であった可能性が高いとみられる。

 

 一同、熊よけの鈴を身に付けてジャンボタクシーを降り、斉藤の案内で館跡に足を踏み入れる。何の変哲もない山林のように見えるが、約百㍍四方の台地上を歩くうち、高低差約3㍍の二重堀の痕跡など、住持をしのばせる見どころが点在しているのが分かった。

 

 「敵がここを攻めるとしたら、海と陸、どちらから来たんでしょうね」と、当時の様子に思いをはせる安部。斉藤は「城郭は南側にもある。(当時の幹線道路の) 奥大道を通って、陸から攻めてきたのではないでしょうか」と応じた。

 

 続いて、内真部館跡の西側に隣接する山城跡へ。津軽の大乱の際、標高87㍍の丘陵の頂部、斜面、尾根筋を利用して急ごしらえで造った城郭の一部だ。陣所があったとされる頂上へ向かう途中、敵の侵入を防ぐため柵を設置したとみられるいくつかの痕跡が見られた。ほとんど人が通っていない証拠に「藪こぎ」の場面もあったが、安部は学生時代にラグビーで鍛えたという足腰ですいすいと登る。藪を抜けた先には、平たん地があり、東側に陸奥湾を望むことができた。

 

 頂上までは一息だが、どう見ても道がない。斉藤が「通れる道がないか、ちょっと見てきます」と一人で探索に出た。30分近く踏査して戻ってきた斉藤によると、陣所があったとされる頂上付近は、重機のようなもので土が崩されており、以前とは大きく地形が変わってしまっていたという。

 

 「以前の姿に戻すのはおそらく不可能でしょう。 中世の山城の面影が残っていた部分だけに、とても残念です」と斉藤。安部も「貴重な遺跡なのになぜこんなことに...」と憤っていた。

 

 気を取り直して下山し、山城跡の南東約1.5㌔にある「前田蝦夷館」跡に移動。内真部城館群の中でもひときわ堅固なつくりとなっており、高低差約8㍍の斜面や深さ約5㍍の堀跡の周囲を息を切らして歩く。

 

 斉藤によると、「蝦夷館」の名の由来は不明だが、中世には内真部館と同じように安藤氏系の城郭として利用された可能性が高いという。自然地形を生かした深い堀跡は見た目にも分かりやすく、小中学生の社会科見学などにはうってつけの場所だと感じた。

 

 その後は、ヤマセが吹き荒れる中、油川湊の痕跡や熊野宮、蓬田大館跡など周辺の安藤氏関連史跡を見学。 安部は「『津軽の大乱』は、実際にどのような戦いが行われたのか分かっていないのが実情。海の近くに城館が点在する広大な地形を歩くと、身体感覚的に当時の様子を想像するヒントになった」と話した。

(敬称略、成田亮)


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       東奥日報2018年6月21日掲載
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