『等伯との旅』 第二十九回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第29回「厳しい拷問を受けた武之丞」
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数日後、玄以はもうひとつのことを知らせてくれた。等伯の実家である奥村家を継いだ長兄武之丞(たけのじょう)が、三成派の者たちに捕われて奉行所の牢に入れられているという。
実は武之丞は主家である畠山家を再興するために三成に接触。利休が等伯に送った手紙を、利休の謀叛(むほん)の証拠だと言って三成に差し出していた。
利休を罪に落とすために躍起(やっき)になっていた三成は、これを利用することにしたが、鶴松の死後秀吉が方針を転換(てんかん)したために、こうした工作をしていた責任を追及されるようになった。
そこで三成は武之丞らが誣告(ぶこく)をしてお上の判断を誤(あやま)らせたと言って責任を押し付け、引っ捕えて拷問し、自白を強要した上で処刑することにしたのである。
それを知った等伯は、玄以に頼んで武之丞に面会させてもらうことにした。厳しい拷問を受けた武之丞は、地下牢の床にボロ布(きれ)のように力なく横たわっていた。
見えていた方の目もつぶされ、何カ所も骨を折られて動くこともできなかった。
「いかがなされました。その目は」
「治部どのの手下どもにくれてやったわ」
「拷問でつぶされたのでございますか」
「白状せねば残った目を焼け火箸でえぐり出すと言うので、やってみるがよいと言ったのだ」
武之丞はそんな強がりを言った。
どうしてそこまでして畠山家の再興にこだわるのか。そうたずねる等伯に、
「わしはそのために、お前の養父母を死なせてしもうた。金ケ崎城でも刀根(とね)坂でも多くの家臣を討死させた。だから命ある限り、主家の再興のために力を尽くす。それがわしの務めなのだ」
武之丞はそう答えた。
これを聞いた等伯は、「この兄と自分は同じ血を受けている。進む道は違ったが、命を賭けて事をなそうとする情念は同じだ」と気付いたのである。
この凄惨(せいさん)なシーンを書く時、私はふるさとの二人の兄を念頭においていた。
いくつになってもどれほど立場が変わっても、兄弟の関係は変わらない。私たち三人は一本の幹から分かれた三本の枝のようなものだ。
それは等伯も同じである。幼い頃には年の離れた武之丞に武芸を叩き込まれ、下男同様の扱いを受けた。長谷川家に養子に行ってからも、御家再興をめざす兄にふり回され、筆舌に尽くし難い迷惑をこおむった。
それでも二人は兄弟である。最後には互いを理解し、和解してもらいたかった。
「もう行け。ここはお前のような者が来る所ではない」
修羅(しゅら)に生きた武之丞にそう言わせたのは、心の中にはずっと兄らしい気遣いがあったことを示したかったからである。
祥雲禅寺の障壁画の仕事は急がなければならなかった。
秀吉は翌年三月には朝鮮出兵をおこなうと決めていて、それまでに祥雲禅寺を完成させて鶴松の法要をしたいと望んでいたからである。
期間はわずか半年。しかも祥雲禅寺の方丈は正面の桁行(けたゆき)が九十九尺(約二十九・七メートル)、側面の梁行(はりゆき)が五十七尺(約十七・一メートル)と、普通の寺の二倍ほどの大きさである。
間取りは仏壇の間と中之間(室中(しっちゅう))を中心として、西に大書院と礼之間、東に衣鉢(いはつ)の間と檀那の間を配している。
等伯と久蔵はまず、どの部屋にどんな絵を描くか決めることから始めた。浄土の風景を描けという秀吉の求めに応じるためには、どんな絵をどこに配するべきなのか……。
こうした場合、他の寺の方丈の絵を参考にするのが常道だった。
「私は大徳寺真珠庵の絵にならいたいと思う」
等伯はそう望んだ。
真珠庵は一休宗純の菩提寺で、曾我蛇足(そがじゃそく)が手がけた水墨画を中心とするものだった。
「私は天瑞寺(てんずいじ)のほうがいいと思います」
久蔵が推す天瑞寺は秀吉の母大政所(まんどころ)の菩提寺で、狩野永徳(かのうえいとく)が金碧画の手法を用いて花木草花を描いていた。
永徳は中之間に松、檀那の間に桜、衣鉢の間に菊を配し、部屋ごとに四季を描き分けている。浄土の風景としてはこちらが適しているので、等伯も久蔵の意見に従うことにした。
次に誰がどの部屋の絵を担当するかである。
親子額を寄せて考えた末に、等伯が仏壇の間の釈迦如来像、大書院の山水図、衣鉢の間の楓図。久蔵が礼之間の松と立葵 (たちあおい)、中之間の松と黄蜀(とろろ)葵、それに檀那の間の桜図を描くことになった。
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北國文華 第76号(2018年6月 夏号)掲載原稿より
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