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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十八回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/12/20

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第28回「桜図、楓図」
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 京都市東山七条にある智積院(ちしゃくいん)は、長谷川等伯の楓図、息子久蔵(きゅうぞう)の桜図を保存していることで知られている。

 現在は真言宗智山派の総本山だが、もともとは豊臣秀吉が三歳で死去した愛児鶴松を供養するために建てた寺だった。

 臨済宗の妙心寺から僧を招いて開山したもので、寺の名は天童山祥雲禅寺という。鶴松の戒名である祥雲院殿にちなんだものである。

 秀吉はこの寺の障壁画を等伯一門に任せた。そうして盛大な落慶法要をおこない、等伯や久蔵の絵も天下の注目を集めることになったが、盛者必衰は世の理(ことわり)である。

 秀吉が死に、元和元年(一六一五)の大坂の陣で豊臣家が滅ぶと、徳川幕府は祥雲禅寺を廃し、寺地を真言宗智山派に与えた。

 実は智山派の総本山は紀州の根来寺(ねごろじ)だったが、天正十三年(一五八五)の秀吉の根来攻めで全山が炎上した。

 以来智山派の僧たちは本山の復興をめざして活動していたが、豊臣家の滅亡を期に祥雲禅寺の跡に五百佛(いおぶ)山根来寺(智積院の寺号)を開くことができたのである。

 

不自然な継ぎ目

 

 秀吉が建立した方丈や仏殿はそのまま使われていたと思われるが、それから六十七年後の天和二年(一六八二)に大火にあった。

 幸い等伯や久蔵が描いた絵の多くは火災をさけて運び出されたが、損傷を受けた部分もかなりあり、残った部分をつなぎ合わせて使うようになった。

 楓図に不自然な継ぎ目があるのはそのためで、この絵がたどってきた激動の歴史を無言のうちに語っている。

 私は小説『等伯』に取りかかる前から何度も智積院に足を運び、楓図と桜図の前で等伯と久蔵のことを考えた。

 一面に金箔を張った画面の中央に、楓の巨木が斜めに伸び、左右に枝を伸ばしている。紅葉した楓の根元には野菊や鶏頭(けいとう)、萩(はぎ)の花などが咲き乱れている。

 しかも楓と花の大きさの対比を無視し、色とりどりの花を大きく描くことで、楓の巨木を荘厳(しょうごん)しているのである。

 一方桜図の華やかさはどうだろう。八重桜が大きく枝を広げ、今を盛りと大輪の花を咲かせている。

 春の歓び、命の華やぎに満ちたこの作品は、当時二十五歳だった久蔵の才能の豊かさと人柄のおおらかさを余すところなく表わしている。

 等伯は五十四歳。長い長い苦難の末に天下人から力量を認められ、親子そろって絵筆をふるえる嬉しさはいかばかりだったろうか。

 

 千利休が自刃を命じられたのは、豊臣家内部の勢力争いの結果だった。

 秀吉と淀殿(よどどの)の間に鶴松が生まれたことで、石田三成(みつなり)ら淀殿に近い官僚派は、一気に豊臣家への権力集中をはかるようになった。

 鶴松は数え年三歳なので、秀吉が急死すれば権力を維持することが難しくなる。そこで秀吉が元気なうちにすべての権力を豊臣家に集め、盤石の体制をきずいておこうとしたのだった。

 この際邪魔になるのが、秀吉の弟秀長を中心とする一門派、有力大名や秀吉子飼いの大名ら分権派、そして彼らに考えが近い利休である。

 そこで三成らは、天正十九年(一五九一)一月の秀長の病死に乗じ、利休に濡れ衣を着せて自刃に追い込んだのだった。

 その後、三成らが利休の縁者に苛烈(かれつ)な弾圧を加えたことはすでに記したが、こんな理不尽なことを世の識者がよしとするはずがない。表立って批判はできなくとも、落書という手段で政治の非を鳴らした。

 その代表的な例が、利休自刃の二日前に張り出された十首の落首である。

 「十分になればこぼるる世の中を

   御存じなきは運の末かな」

 「末世とは別(へち)にはあらじ木の下の

   さる関白を見るにつけても」

 他八首。いずれも秀吉の治政を痛烈に批判したものである。

 

病気で急死した鶴松

 

 そうした反政権の世論がわき上がっているさなか、八月五日に鶴松が病気で急死した。そのために秀吉はこれまでの方針を転換せざるを得なくなったのだった。

 秀吉がまずやったのは、祥雲禅寺を建てて鶴松の供養を盛大におこなうことだった。巨大な伽藍(がらん)をきずいて力を見せつけると同時に、妙心寺の僧を開山に招くことで、不肖事を起こした(と秀吉が決めつけている)大徳寺の権威を失墜させようとした。

 しかも寺の障壁画を利休と親しかった等伯に任せることで、利休を自害させたことへの批判や反発を和らげようとした。

 また甥の秀次に関白職をゆずって後継者とすることで、一門派や分権派の大名との和解をはかろうとした。

 窮地に追い込まれた三成らが形勢を挽回するには、淀殿に次の世継ぎを生んでもらうしかない。

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   北國文華 第76号(2018年6月 夏号)掲載原稿より
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