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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十七回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/12/13

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第27回「親密だった等伯と利休」
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 この事件は等伯にも深刻な影響を及ぼした。

 等伯は堺にいた頃から利休とは親交を結んでいる。利休の紹介のお陰で春屋宗園の弟子になることができたし、金毛閣の壁画を手がけて一躍天下に名を知られるようになった。
 その利休が木像の件で処罰されるなら、壁画を描いた等伯も何らかの罪に問われるおそれがある。それに金毛閣そのものが取り壊され、等伯の傑作が灰燼(かいじん)に帰(き)すかもしれなかった。

 この頃の等伯と利休の親密ぶりについて、狩野永納(えいのう)が興味深い記録を残している。元禄六(一六九三)年に刊行された『本朝画史』の中で、等伯は「利休と交わりを結び、心を合わせ、相共(あいとも)に狩野氏を謗(そし)る」というのである。
 つまり利休も等伯も狩野派の敵だという認識が、狩野派の中ではこの頃までつづいていたということだ。あるいは等伯と利休、狩野派と三成の対立構図があって、狩野派も利休事件を機に等伯を追い落とそうとしたのかもしれない。

 

 心配になった等伯は、大徳寺の三玄院に春屋宗園をたずねた。
 すると利休も来ていて、どう対処するかを話し合っていた。秀吉は謝罪をしたなら許すと伝えてきたが、利休にそのつもりはないという。

 「筋の通らぬことに屈して生きるよりは、己れの生き様を貫いて命を終えた方がええ」

 そう言うのである。
 それでは三成の思う壺ではないかと言う等伯に、利休は次のように悟した。

 「わしには茶の湯の門、お前には絵師の門がある。門の外のことは仕方がないが、内側は自分の世界や。命をかけて守らんでどうする」

 そして等伯に、これからは死んだ者を背負って生きていけと言い、宗園が名付けた等白という名に人偏を加えた。等伯と名乗るようになったのはこれ以後のことである。

 

 利休は二月十三日に堺に下って謹慎するように命じられ、夜になってから身内や弟子たちの見送りもないまま都を発った。だが愛弟子だった細川忠興と古田織部だけは、淀の船着場でひそかに見送った。
 これに気付いた利休は、「驚き存じ候。かたじけなし由、頼みに存じ候」と、門弟にあてた書状に記している。

 二月二十五日、金毛閣にかかげていた利休の木像が、一条戻り橋で磔にかけられた。木像の脇には利休の罪状を面白おかしく記した高札(こうさつ)が立てられた。
 それを目撃した伊達政宗の家臣は、国許に送った書状の中に「右八付(はりつけ)の脇に、色々の科(とが)ども遊ばされ御札を相立(あいた)てられ候。おもしろき御文言、あげて計(かぞ)うべからず候」と記している。
 三成らは利休の罪状を面白おかしく書き立て、処刑を是とする世論造りをはかったのである。

 

 翌二十六日、利休は上洛を命じられて聚楽第(じゅらくだい)の屋敷にもどった。身内や弟子、一門派の大名たちは何とか利休を助けようと助命嘆願を行ったが、利休が筋を曲げてまで命を長らえるつもりはないと決意しているのだからいかんともし難い。

 その一徹さに手を焼いた秀吉は、ついに二十八日に切腹を命じた。これに反対する大名が利休を救出することを怖れ、上杉景勝の軍勢三千に屋敷のまわりを警固させたほどだった。

 

 利休の辞世の歌は、次の通りである。

 提(ひっさぐ)る 我(わが)得具足(えぐそく)の一太刀(ひとつだち)
今此時(このとき)ぞ 天に抛(なげう)つ

 得具足とは得意な武器のことだ。その一太刀を天に抛ったとは、生涯をかけて奥義を極めた茶の湯の門を守り抜き、命と共に天に回帰していくということだろう。

 生涯最後の茶席に家康招く

 それは禅と茶を極めた利休らしい胸の内だが、私にはもうひとつの意味があるような気がしてならない。というのは利休が生涯最後の茶席に招いたのが、徳川家康だからである。

 利休は三成ら官僚派のやり方では日本が立ちゆかなくなることを見通し、一門派に近い家康に豊臣政権と三成らの弱点をすべて伝えたのではないか。
 政権の内々の儀に精通していた利休には、何をどうすれば三成らを分断し、権力の座から追い落とすことができるか分っていた。それこそが得具足だとするなら、天に抛つとは正統な天下の後継者に引き渡すとも解釈することができる。

 おそらく三成はそう受け取ったのだろう。利休の名声を傷付けようと躍起(やっき)になり、利休の首を件(くだん)の木像に踏ませた状況で一条戻り橋にさらした。武士とも思えぬ執拗(しつよう)で残虐(ざんぎゃく)なやり方だが、利休への報復はこればかりではなかった。

 神官である吉田兼見は、三月八日の日記(『兼見卿記』)に次のように記している。

 「今日宗易母、同息女、石田治部少輔において強問(拷問)、蛇責め仕(つかまつ)るの由その沙汰なり。母当座に絶死し、次に息女同前云々。但(ただ)し慥(たし)かならず」

 兼見は慥かならずと記しているが、公家の間でそうした噂があったことは事実である。
 これは三成が利休の関係者を厳しく取り調べていたことと、蛇責め(蛇を入れた桶に女を裸で入れる)のような凄惨(せいさん)な拷問をやりかねない男だと見られていたことを示している。

 そんなことまでして聞き出したかったのは、利休が茶室で家康に何を伝えたかだと思うが、読者諸賢はどうお考えだろうか。

 利休の死の四年後、文禄四(一五九五)年九月に等伯は千利休像を描き上げ、春屋宗園に賛をしてもらう。大恩ある利休の真実の姿を後世に伝えようとする気迫あふれる肖像画で、今に伝わる利休の絵はこれ一作だけである。
 死んだ者を背負って生きよという利休の遺言を、等伯はこんな形で実行したのだった。

 

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     北國文華 第75号(2018年3月 春号)掲載原稿より  
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