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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十六回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/10/25

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第26回「秀長が他界」
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 ところが翌天正十九年、等伯の行手に暗雲が立ち込める。そのきっかけとなったのは、一月二十二日に秀吉の弟秀長が他界したことである。

 秀長は大和郡山百万石の大守で、豊臣政権においても秀吉に次ぐ発言力を持っていた。そのことは天正十四年に大友宗麟が大坂城を訪ねた時、秀長が宗麟に、
 「内々の儀は宗易(そうえき)(千利休)、公儀の事は宗相(秀長)存じ候」(『大友家文書録』)
 そう語って、二人に任せておけば何の心配もないと大友家の安泰(あんたい)を保証した史実からも明らかである。

 

 実はこの頃の豊臣政権内では、朝鮮出兵を推し進めようとする石田三成(みつなり)ら官僚派と、国内の統治を優先するべきだとする秀長ら一門派が激しく争っていた。
 官僚派の背後には世継ぎの鶴松を産んだ淀殿(よどどの)一門派の背後には秀吉の正室の北政所(きたのまんどころ)がいたので、正室対側室という女の戦いもからんで、争いは激化の一途をたどった。

 秀長は一門派の重鎮で、利休や前田利家、徳川家康とも親しく、公儀のことを取り仕切る立場にあった。それが長患(わず)らいの末に五十二歳で他界したために、三成らは一気に一門派の切り崩しにかかった。

 その標的とされたのが千利休である。

 利休は秀吉から内々の儀を任され、秀長と車の両輪となって豊臣政権を支えていたのだから、今日の内閣にたとえるなら利休が官房長官、秀長が自民党幹事長といった役回りである。

 

 三成(そして淀殿)らは、秀長の死を好機ととらえ、利休に濡れ衣を着せて葬り去ろうとした。その口実としたのが、大徳寺の山門(金毛閣(きんもうかく))に利休の木像が納めてあることだった。

 山門はもともと一重の造りだったが、天正十七(一五八九)年に利休が二階部分を建て増しして金毛閣と名付けた。大徳寺の住職である古渓宗陳(こけいそうちん)や、利休の禅の師である春屋宗園(しゅんおくそうえん)は、この労に報いるために利休の木像を作って金毛閣の二階に納めた。

 三成らはこのことを問題にし、関白殿下がお通りになる山門の二階に木像を置くとは、殿下を踏みつけにする所業だと言いがかりをつけたのである。
 しかしこれは利休の責任ではなく、大徳寺側が利休の寄進に報いるためにしたことである。古渓宗陳らがそう陳情すると、秀吉はそれなら宗陳、宗園、利休の三人とも磔(はりつけ)にし、山門に首をかかげよと命じた。

 ところが母親の大政所や正室の北政所にいさめられて、宗陳と宗園の処刑は思いとどまったと史書には記されているが、これが事実かどうか分らない。
 なぜならこの頃秀吉は重臣たちと直接会うことは少なく、その意向は側近の三成ら官僚派を通して伝えていたからだ。つまり三成らは秀吉の命令だと言って何でも出来る立場にあった。

 そこで利休に言いがかりをつけて葬り去ろうとしたものの、宗陳、宗園らの思わぬ抵抗にあい、三人のうち二人は特別の温情によって許すという形をとって、利休の首だけを取ることにした。そう考えた方が理にかなっている気がする。

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 北國文華 第75号(2018年3月 春号)掲載原稿より  
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