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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十五回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/10/18

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第25回「利休事件」
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 天正十八(一五九〇)年九月十五日、狩野永徳(かのうえいとく)が死んだ。行年四十八。まだまだこれから己の画境を高め、ゆるぎない傑作を数多く残すだろうと期待された矢先の、思いがけない急逝だった。

 この不幸な出来事が、長谷川等伯と狩野派の対立を決定的なものにした。

 理由の一つは、永徳の死の一カ月前、等伯と狩野派が仙洞御所の襖絵(ふすまえ)の発注をめぐって激しく争ったことである。初めは等伯に依頼された仕事を、永徳らは大物公家に直訴して奪い取った。
 そのいきさつについては本稿の第七、八回(第19回~第24回)で記した通りだが、このことが永徳にとっては大きな心の負担、ストレスとなり、死期を早めたと考えられる。

 永徳とて子供の頃から天才と呼ばれ、信長や秀吉に重用されて名声をほしいままにしてきた超一流の絵師である。狩野派の政治力や賄賂(わいろ)を使って他人の仕事を奪い取るようなことをしてはならないと、重々承知していただろう。

 だが、仙洞御所の仕事を等伯に奪われたなら、朝廷や幕府の専属として隆盛(りゅうせい)をきわめてきた狩野派の名声は地に墜(お)ちる。初代正信以来保ってきた名誉と特権を、四代目の自分の代で失うことは絶対にできない。
 永徳はそう考え、絵師としては冒(おか)してはならない禁断の一線を越えたのだろう。だがそのことは双刃の剣となり、永徳の絵師としての誇りと信念を打ちくだいた。

 そのために永徳は創作に向かう意欲を失い、自暴自棄(じき)となって、まるで己を殺すように急逝した。その姿を間近で見ていた狩野派の者たちは、自分たちの過(あやま)ちを反省するどころか、等伯のせいでこんなことになったと逆恨みし、不倶戴天(ふぐたいてん)の仇(かたき)と見なすようになったのである。

 

 久蔵(きゅうぞう)を呼び戻す


 もう一つは、狩野派の弟子になっていた息子の久蔵を、等伯が仙洞御所の仕事を請(う)け負(お)うために呼び戻したことだ。

 御所に新築した対(たい)の屋の襖をすべて描くのだから、おそらく百枚以上になっただろう。それを等伯一人で描くのはとても無理なので、狩野派のように多くの絵師を抱えて長谷川派を立ち上げる必要があった。

 そこで等伯は、永徳のもとに修行に出していた久蔵を呼び戻した。しかも久蔵を慕う狩野派の若手が数人、等伯のもとにやって来たために、狩野派からは引き抜きをしたと見なされたのである。

 これは単に人材に関わるだけの話ではない。狩野派には初代正信以来つちかった、絵についての数々の秘伝がある。
 どんな絵をどこにどう描くかを記した見本帳や、絵具や筆の作り方。胡粉(ごふん)と膠(にわか)の混ぜ合わせ方から金箔の貼(は)り方に至るまで、長年の経験と知識によって作り上げた門外不出の技である。
 久蔵や弟子を引き抜かれることは、その秘密をごっそり奪い去られることを意味している。狩野派としては絶対に認めることのできない反逆だった。

 さらに言えば、永徳を失った衝撃に狩野派が打ちのめされたことだ。永徳の子供や弟子の中には、等伯や久蔵に対抗できるほどの技量の持ち主はいない。そのことは狩野派自身が誰よりも良く分っていただろう。
 そのため、このままでは自派の独占的な地位を長谷川派に奪われるという深刻な危機に直面した。この窮地を乗り切るには、何としてでも長谷川派を潰(つぶ)さねばならぬと、等伯と久蔵を目の仇にするようになった。

 このことが後に、狩野派による久蔵の暗殺(異説もある)という悲劇を招いたのだから、永徳の死が久蔵を殺したと言っても過言ではないだろう。

 狩野派がどれほど等伯を抹殺(まっさつ)したがっていたかは、永徳の孫探幽(たんゆう)が「竹虎図屏風」に記した紙中極(しちゅうぎめ)からもうかがうことができる。竹林に憩(いこ)う虎の夫婦を愛敬(あいきょう)たっぷりに描いた等伯の傑作だが、なんと探幽はこの絵が周文の作だと鑑定(かんてい)し、画中にそう明記している。
 探幽ほどの目利きが間違えるはずはないのだから、等伯の業績を消すために意図的に記したとしか思えない。現にこの鑑定は江戸期を通じて信じられ、等伯の作と分ったのは近年になってからなのである。

 それでも等伯一家は平穏で幸せな時期を過ごしていた。天正十八(一五九〇)年十一月には、後妻の清子との間に又四郎(後の長谷川宗也)が生まれ、久蔵も着実に絵師としての力量を身につけている。

 等伯は先妻の静子を失くして以来初めておとずれた家庭の幸福を満喫していたのだった。


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 北國文華 第75号(2018年3月 春号)掲載原稿より  
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