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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十四回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/10/11

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第24回「朝廷から吉報届く」
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 等伯の緊張もそれ以上に大きかったはずだが、結果は吉と出た。

 七月末に前田玄以(げんい)を通じて、等伯に決ったという知らせが朝廷からあったのである。

 等伯は腰が抜けるほどの安堵と、試練に勝った歓びを感じながら、義父母や前妻静子の位牌に手を合わせた。この人たちの教えと支えがあったから、ここまでたどり着くことができたのである。

 むろん清子や息子の久蔵(きゅうぞう)にも礼を言った。

 「お陰で仕事が取れた。私の我ままを許してくれてありがとう」

 自慢するでも得意がるでもなく、ただ感謝の気持ちで一杯だった。

 等伯はさっそく仕事にかかった。対の屋の図面をもとに、襖絵(ふすまえ)の位置と枚数を確かめる。墨や絵具も最上のものを用意しなければならないし、絵師もあと三十人ほど雇わなければならなかった。

 「長谷川派の旗上げだ。精魂を込めて、後の世まで残る仕事をしようではないか」

 これでようやく狩野派と肩を並べる仕事ができる。等伯は念願かなった嬉しさに勇み立っていたが、八月十一日になって思いがけない知らせがとどいた。対の屋の仕事が中止になったというのである。

 等伯は急いで玄以(げんい)の屋敷に行って、中止の理由をたずねたが、詳しいことは知らされていないという。

 「今度のことは陣定で決められたと聞きました。それなのに簡単にくつがえるのでしょうか」

 そうたずねたが、玄以はすでに陣定(じんのさだめ)などは行われていないという。等伯は対の屋の仕事を失ったばかりか、夕姫や武之丞にだまされていたことに気付いたのである。

 中止になったのは、狩野派による妨害があったからだった。永徳は八月八日に観修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)(晴子の兄)をたずね、御所の絵を「長谷川と申す者に申し付けたのは迷惑なので断わってほしい」と申し入れた。

 晴豊はさっそくこのことを関白九条兼孝(くじょうかねたか)に伝えて協議し、狩野派に発注することにした旨を八月十一日に永徳に伝えている。

 そして八月十三日には永徳らがお礼のために晴豊邸をたずねて祝杯をあげたことが、晴豊の日記である『晴豊公記』に克明に記されているのである。

 この決定を得るために、永徳らが莫大な献金をしたことは想像に難(かた)くない。狩野派の独占的地位を守るためには、絵の技量ばかりでなく、こうした政治力も必要なのだった。

 こうなれば等伯には手も足も出ない。対の屋の仕事も六百両も諦めるしかないと自分に言いきかせたが、心の奥底には諦めきれない不満と憤懣(ふんまん)が渦巻いている。

 その感情をしずめようと居酒屋に立ち寄ったが、酔うほどに怒りや無念は大きくなっていくばかりである。

 そして頭に浮かんだのが、永徳に不正を認めさせ、一言謝ってもらうことだった。そうすればこのやり場のない怒りを突き抜けられる。すべてを忘れて一からやり直すことができる。

 そう思って狩野の屋敷を訪ねたが、永徳らは月見の酒宴の最中だった。等伯は月見台が作られた中庭にふらふらと迷い込み、永徳に対面を求めたが、屈強の弟子たちにさえぎられた。

 「ひと言、永徳どのと話させてくれ。それがすめばすぐに帰る」

 そう訴える等伯に、永徳は土下座したままなら話を聞いてやると高飛車だった。そして等伯が不正のことを認めさせようとしても、知らぬ存ぜぬの一点張りで、謝ろうともしない。

 それを聞いた等伯は、平気で嘘(うそ)をつくような人間だからまともな絵が描けないのだと怒りをぶちまける。

 「あなたの檜図(ひのきず)を見たが、大向こうをうならせようとする底意と工夫ばかりが目立って、肝心の絵心が見えません。自分の絵にまで嘘をつくようでは、絵師をつづける意味がありますまい」

 この暴言に激高した永徳は、等伯をつまみ出すように弟子たちに命じた。そのもみ合いの中で等伯は四、五人の弟子を投げ飛ばしたが、武道の心得のある弟子の木刀の一撃を受け、額が割れ骨が陥没(かんぼつ)するほどの傷を負った。

 ところが倒れない。武家の奥村家で育ち、武之丞(たけのじょう)から「倒れたら、殺されるぞ」という教えを叩き込まれたことが体に染みついていて、重傷を負いながらも永徳に向かっていった。

 「永徳どの、よう聞かれよ。そうして嘘(うそ)に嘘を重ねておられるゆえ、あのような虚仮(こけ)おどしの絵しか描けなくなったのじゃ。貴殿の天稟(てんぴん)は誰もが知っておる。もう一度初心にかえり、魂のこもった絵を描いて下され」

 

 ならば久蔵(きゅうぞう)を返せ


 そう迫る等伯に、永徳は「ならば、久蔵を返せ」と、思いがけないことを言った。

 「久蔵がいてくれたなら、私も立ち直ることができた。あれに絵を教えていると、初心にかえることができたのだ」

 泣きながら訴える永徳を見て、等伯ははっと気付いたことがある。これまで名門狩野派の巨大な壁に挑みつづけ、欲しいものをすべて持っている永徳がうらやましいとばかり思いつづけてきた。

 ところがその永徳さえうらやむほどの久蔵という宝を、自分は持っていたのだ。そう思うと怒りも恨(うら)みも消え失せ、狩野派を背負ってきた永徳の孤独と苦しみがまざまざと分かった。

 等伯はその場で気を失い、狩野派の弟子たちによって家にかつぎ込まれた。そして清子の献身的な看病によって事なきを得たが、それから一カ月後の九月十五日に思いがけない知らせが届いた。

 「昨日、総帥が亡くなられたそうです」

 久蔵が真っ青な顔で告げた。狩野派にいた頃に親しくしていた者が伝えてくれたという。

 天才絵師の名をほしいままにし、信長にも秀吉にも重用された永徳も、四十八歳を一期として世を去ったのだった。

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 北國文華 第74号(2017年12月 冬号)掲載原稿より  
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