『等伯との旅』 第二十三回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第23回「前田玄以からの忠告」
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等伯は武之丞の頼みを断わりきれずに訴状を取り次いだが、玄以に手厳しく釘を刺された。
六角承禎がお伽衆に取り立てられたのは、豊臣家中で勢力を強めつつある淀殿(よどどの)と石田三成派が、浅井家の主家であった京極家と同族の六角家を支援したからだという。
浅井家に生まれた淀殿は、そうした形で自家の血筋の良さを示すとともに、味方を増やそうとしている。だから庇護者を持たない畠山家とはまったく違うというのである。
「辛いお立場は分りますが、こういうことには関わらないほうがいいでしょう」
ようやく開けた絵師の道が閉ざされることにもなりかねないと忠告され、等伯はやはり夕姫に頼るべきではないと思い直した。
そして畠山義続(よしつぐ)の肖像画を納めることを最後に縁を切ろうと興臨(こうりん)院をたずねるが、武之丞から思いがけないことを聞かされる。対の屋の絵を等伯に任せたいと、観修寺晴子(かじゅうじはるこ)が望んでいるというのである。
余談だが、この時、等伯が描いた義続の肖像画は、長い間武田信玄像として教科書などにも取り上げられていた。
しかし最近の研究では、腰に二引両(ふたつひきりょう)の家紋が入った脇差をさしていることや、等伯と信玄が会う機会はなかったことなどを理由として、義続(よしつぐ)像だという説がほぼ定着しているようである。
武之丞(たけのじょう)は見事に描かれた義続像を見て男泣きし、等伯に初めてお礼を言った。そして晴子からの返答を記した夕姫の手紙を見せてくれたが、事はすんなりとは進まなかった。
「対の屋の絵師は、朝廷の陣定(じんのさだめ)(公卿会議)で決められる。公卿の中には狩野派から働きかけを受けている者もいる。それゆえ」
これに対抗するには、あと三百両の工作資金が必要だというのである。
そんな金を清子が出してくれるわけがない。もうこの話からは手を引こう。等伯は打ちのめされた気持で洛中をふらふらと歩き、諦めきれないままいつしか仙洞御所の前まで来ていた。
すると御所から出て来る者たちがいた。狩野永徳(かのうえいとく)と一門の高弟たちである。しかも大納言さまの了解を得たので、対の屋の絵は任されたも同然だと話しているではないか。
これを聞いた等伯は、負けるわけにはいかないという意地と競争心を燃え上がらせ、能登屋から借金するという形で清子に三百両を出させ、武之丞に届けたのだった。
(六百両もの大金だ。端(はな)から騙(だま)すつもりなら、そんなに吹っかけるはずがあるまい)
そんな甘い理屈で自分をなぐさめ、藁(わら)にもすがる思いで決定の知らせを待った。
こう書いていると、直木賞決定の知らせを待っていた時のことを思い出す。最初は三十九歳で候補になった時、そして五十七歳、「等伯」で受賞した時のことだ。
この賞さえもらえたなら、これまでの苦労が報われるし世間にも顔向けができる。そう思いながら待つ時の期待と不安と緊張は、筆舌に尽くし難いものがある。
芥川賞の候補になった太宰治は、選考委員の佐藤春夫に手紙を書き、「私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」と、受賞させてくれるように訴えている。また同賞の候補になった中山義秀は、発表を待つ緊張に耐えられず、日本刀で野犬を斬って回ったというエピソードもある。
(つづく)
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北國文華 第74号(2017年12月 冬号)掲載原稿より
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