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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十二回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/09/27

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第22回「永徳死す」
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 長谷川等伯は仙洞御所(上皇の御所)の対(つい)の屋の仕事がしたくてたまらなかった。

 等伯の養祖父無分(むぶん)は都に絵の修業に出た時、仙洞御所の桜の株を分けてもらい、それを七尾の家の庭に植えた。そして息子の宗清(むねきよ)や養子となった等伯に、この桜を描くことで絵師として技を磨かせたのである。

 日本の文化、芸術の基本は朝廷文化にある。無分はそのことを良く知っていて、

 「この桜はうちの宝だ。蔵の中の金銀より、こちらが大切だと思え」

 そう教え諭(さと)していたのだった。

 等伯は七尾を追われ、もはやあの家に帰ることはできない。だから、仙洞御所に襖絵(ふすまえ)を描くことで、無分や宗清たちへの罪滅ぼしをしたいと思ったのだった。

 そこで旧主畠山家の姫君である夕姫に助力を求めたが、夕姫のもとには兄の奥村武之丞(たけのじょう)がいて、口利き料として三百両(約三千万円)を払うように求めてきた。

 (さ、三百両…)

 等伯は目の玉が飛び出るほどに驚いたが、主上の母親である観修寺晴子(かじゅうじはるこ)に尽力を頼むにはこれくらい必要なのだろうと思い直し、妻の清子に相談した。

 清子は堺の豪商油屋の娘なので、店の経営や経理に通じている。能登屋の経営もすべて任せているので、三百両の大金を払うには清子の許可が必要だった。

 ところが清子は、この話には初めから疑いを持っていた。油屋にいた頃、公家たちがこうした手口で口利き料を巻き上げたり借金を踏み倒していたことを知っていたからである。

 しかし等伯は何とか出してくれと拝み倒し、天正大判(一枚十両)三十枚を大徳寺の降臨院にいる武之丞に届けた。


 兄のもう一つの頼み


 武之丞は満足して受け取ったが、もうひとつ頼みたいことがあるという。このほど近江の六角承禎(ろっかくじょうてい)が豊臣秀吉のお伽衆(とぎしゅう)に取り立てられたが、畠山家も同じ扱いをしてくれるよう、京都奉行の前田玄以(げんい)に直訴(じきそ)したいというのである。

 「わが主家とて源頼朝(みなもとのよりとも)公に仕えた畠山重忠(しげただ)公ゆかりの家じゃ。足利幕府においては管領(かんれい)家として重職をになってきた。家格においては六角どのの近江源氏に劣るものではない」

 だからお伽衆に任じられ一万石でも五千石でも扶持(ふち)を与えられれば、近江に隠れ住んでいる畠山義綱(よしつな)も再び天下に出られるし、畠山家の家名を残すことも出来るというのである。

 しかし等伯は引き受けなかった。玄以とは比叡山焼き討ちから逃れる時に偶然知り合い、命の恩人と感謝される間柄だったが、こんなことを頼める筋合いではなかった。

 「それならこの場で訴状を書く。それを玄以どのに取り次いでくれ」

 強引に迫る武之丞(たけのじょう)に負けて、等伯は訴状を取り次ぐことを引き受けた。畠山家を再興したいという兄の一途な気持ちはよく分かるし、長兄には逆らえないという子供の頃から叩き込まれた教えがあったからである。

 実は福岡県の片田舎で生まれた私も、等伯と同じような経験をしている。農家の五人兄弟の末っ子だったので、三人の兄たちには頭が上がらない。中でも次兄には酒を飲むたびに説教され、言葉の袋叩きにされていた。

 何しろ次兄のお陰で我が家は生計を立てることができたし、進学することができたのも兄の働きがあったからこそである。兄が毎月、仕送りしてくれる現金封筒を、父が仏壇にそなえて手を合わせていた姿を、今でも鮮明に覚えている。

 そんな相手に何を言われようと、こちらはじっと我慢して聞いている他はない。その関係は郷里を出て四十年たった今もつづいていて、村の行事があるから帰って来いと言われれば、どんなに忙しくても飛んで帰らざるを得ない。

 等伯の武之丞に対する思いには私のこうした思いも重なっていて、「なんでやねん」と反発しながらも従ってしまう業のようなものがある。

 しかし考えてみれば、兄がふるさとを体現しているからこそ、おのずと従いたくなるのかもしれない。

(つづく)
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 北國文華 第73号(2017年12月 冬号)掲載原稿より
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