『等伯との旅』 第二十一回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第21回「別格扱いの「長男」」
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兄弟の関係というものは、互いにどんな境遇になろうと子供の頃と変わらない。
武之丞は長兄だった威厳をもって等伯を手下扱いするし、等伯も内心反発しながらもそれに逆らうことができなかった。
そのことを実感し、夕姫を頼ったことを死ぬほど後悔したが、今さら後戻りはできない。蛇ににらまれた蛙のように、武之丞に案内されるまま大徳寺の興臨院(こうりんいん)をたずねたのだった。
このあたりの等伯と武之丞の関係を描く上で、能登半島での取材が役に立った。能登では最近まで長男はひときわ大切にされ、次男、三男とは明らかに扱いがちがっていた。
農地が狭く、冬は雪に閉ざされる厳しい環境を生き抜くために、財産の分散を避けようとしたことが、こうした制度を生んだという。
「ぼくたちが子供の頃は、四男、五男なんか召し使いと同じ扱いでしたよ」
私よりひと回り年上の方が、そう打ち明けて下さった。
等伯の頃はそうした制度はさらに厳しかったにちがいない。だから武之丞には逆らえないという掟が、体の中にたたき込まれていたのだった。
興臨院は義綱の祖父義総が建立した塔頭で、畠山家に対しては特別の敬意を払っている。夕姫がここを対面場所に選んだのは、人目をはばかる必要がないからだった。
夕姫と会うのは近衛前久と引き合わせてもらった時以来、実に十七年ぶりである。
話はこの春に夕姫の父、畠山義続が他界したことから始まった。
「父も最後は零落し、病気になっても医師にも診てもらえなかったそうです。誇り高い人でしたから、さぞ無念だったことでしょう」
そう言って打ち沈む夕姫に、それなら自分が大殿の肖像を描かせてもらうと申し出た。
「任せて下さい。威風堂々たる大殿の姿を描いて、この塔頭におさめさせていただきます」
思わずそう口にしたのは、夕姫の機嫌を取るためばかりではない。能登の太守だった義続への敵意と感謝、そして断ち難いふるさとへの思いがあったからだった。
こうして描いた絵が、かつて武田信玄像と比定されてきた有名な肖像画である。
しかし近年では、等伯が信玄と接した時期はなかったこと、画中に二つ引両の足利家の紋が描かれていることから、畠山義続を描いたものだという説が有力である。
私は後者の説に立って、義続像が描かれたいきさつを物語に織り込んだのだった。
背景に天皇と上皇の対立
等伯は仙洞御所の襖絵の件を話し、近衛前久に尽力を断られたことを語った。すると夕姫は、たちどころにその背景を明かしてくれた。
秀吉は前久(さきひさ)の猶子になって関白に任官する時、やがて八条宮智仁親王(はちじょうみやとしひとしんのう)に位をゆずると誓約した。
それで朝廷内の反対を押し切って関白になることができたのだが、その翌年に淀殿(よどどの)が鶴松を生むと、この誓約を反故(ほご)にして鶴松に位をゆずると言い出した。
そのために五摂家に準じる豊臣家を創出させ、世襲の正統性を作りあげたほどである。
このあおりを受けて智仁親王の処遇が宙に浮いたために、秀吉は智仁親王に親王宣下をして新しい宮家を作るように奏請した。
ところがこれには後陽成(ごようぜい)天皇が強く反対なされた。親王宣下をすれば、やがて皇位を奪われるかもしれないと危惧されたのである。
そこで秀吉は正親町(おおぎまち)上皇に尽力を頼むことにし、その見返りとして仙洞御所の対の屋を寄進することにした。
そのために朝廷では天皇と上皇の対立が起こっている。娘を天皇の女御にしている前久としては、上皇に加担するようなことはできなかったのである。
前久に嫌われたわけではなかった。それを知ってほっとしている等伯に、夕姫は、
「わたくしは上皇さまに仕えておられる勧修寺晴子さまに、懇意にしていただいております。長谷川さまの絵をご覧いただければ、道が開けるかもしれません」
救いの手をさし伸べてくれたが、手ぶらでお願いに上がる訳にはいかないという。
等伯は多少の出費はやむを得ないと仲介を頼んだが、翌日武之丞(たけのじょう)が寄こした文に三百両(約三千万円)を用意しろと記されていたのだった。
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北國文華 第73号(2017年9月 秋号)掲載原稿より
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