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等伯との旅

『等伯との旅』 第二十回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/09/13

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第20回「狩野派と和解へ」

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 そうした順調な生活のさなかに、店に思わぬ来客があった。狩野永徳の父松栄(しょうえい)である。

 松栄は絵師としての評価は永徳に及ばないものの、等伯に狩野派の画法を教えてくれた恩人だった。

 「絵師とは狭く険しい道を行く求道者だ。誰かがそこを越えてくれたなら、後につづく者の励みになる」

 そう言って門戸を開いてくれた度量の大きな先達だった。

 松栄がたずねて来たのは、永徳との仲直りを勧めるためだった。等伯が大徳寺三門の仕事をすると知った永徳は、各方面に手を回して妨害しようとした。

 また久蔵が狩野派の弟子を何人か引き連れて戻ったために、狩野派では引き抜かれたと騒ぎ立て、両派の関係は険悪になっていた。

 このままでは絵画界のためにならないし、等伯や久蔵の将来にも禍根を残す。それゆえ等伯から頭を下げて和解してくれと、松栄は深々と頭を下げて頼み込んだ。

 等伯はそれを聞き入れ、久蔵を連れて狩野家をたずねた。ところが永徳は和解に応じるどころか、久蔵が献上しようとした絵を蹴り飛ばし、

 「この都で仕事がしたいなら、狩野に楯突くな」

 金切り声で怒鳴って立ち去ったのだった。

 

 この頃、関白となった豊臣秀吉は、小田原征伐の真っ最中だった。小田原城の北条氏を二十万といわれる大軍で包囲し、降伏に追い込もうとしていた。

 そんな時、等伯は京都奉行の前田玄以(げんい)から呼び出される。

 比叡山焼き討ちの時、等伯は子供を抱いて山から逃げようとしていた玄以を助けた。玄以は、信長や秀吉のもとで立身した後も、その恩義を忘れることなく等伯を陰ながら支えてくれた。

 そして今度は、秀吉が新しく造営する仙洞御所の対(たい)の屋(や)の襖(ふすま)絵を描けるように、等伯を推せんしたいという。

 これは等伯にとって夢のような話だった。上皇がお住まいになる仙洞御所の絵を任されるということは、日本一の絵師と認められるも同じだからである。

 「それは願ってもないことです。仙洞御所には祖父の無分(むぶん)が株を分けていただいた八重桜があります。あの花に添う絵を描かせていただけるなら、どんな犠牲もいとわないつもりです」

 等伯は勇躍して答えた。

 その八重桜は、七尾の長谷川家の庭に植えられていて、等伯の画業を支える心の拠り所になっていた。等伯は七尾の家を潰した罪をあがなうためにも、長谷川家の技を御所の中で生かしたいと思ったのである。

 「それなら推せんさせていただきますが、私ができるのはここまでです。絵師を決めるのは朝廷ですから」

 この仕事を受注しようと狩野派も動いている。だから朝廷に伝(つて)があるなら、そちらにも働きかけておいたほうがいい。玄以はそう助言した。

 

 畠山義続の娘・夕姫をたよる

 

 伝といえば、前関白の近衛前久(さきひさ)がいる。朝廷一の実力者である前久に口をきいてもらえば、これほど心強いことはない。

 等伯はそう思って前久の屋敷を訪ねるが、

 「そのことなら力になれん。残念やったな」

 けんもほろろに断られた。

 なぜ前久が急に冷たい態度を取るのか、等伯には分からない。しばらく挨拶(あいさつ)に来なかったので見離されたかと、心中おだやかではなかったが、理由をたずねるわけにもいかないのだった。

 むなしく家に帰った等伯は、他に何か方法はないかと煩悶(はんもん)する。そして夕姫に頼ったらどうかと思いついたのだった。

 夕姫は能登の大名だった畠山義続の娘で、公家の三条西家に嫁いでいる。等伯を前久に紹介してくれたこともあり、朝廷の内情にも通じていた。

 しかしこれは危険な賭けだった。夕姫は能登から追放された畠山家を再興しようと躍起になっており、そのためには手段を選ばないところがある。

 等伯は七尾にいた頃、夕姫や実家の兄奥村武之丞(たけのじょう)の計略にはまり、養父母を死なせ、七尾を追放される苦境に追い込まれた。

 そのことを思えば、二度と夕姫に近づくべきではないと心の声が警告するが、仙洞御所の仕事をしたいという願いは、それ以上に強いのだった。

 等伯は意を決し、相談したいことがあるので会ってほしいと書いた文を夕姫に届けた。

 すると翌日、兄の武之丞が夕姫の使いとしてやってきた。しかも左目はつぶれ、右足を引きずる無残な姿だった。

 「兄者、その目は」

 驚いてたずねる等伯に、武之丞は織田の鉄砲隊にやられたと事もなげに答えた。

 武之丞は畠山家の再興をなし遂げるために、朝倉義景の軍勢に加わって信長軍と戦った。

 ところが近江での戦いに敗れて敗走する途中、刀根坂(とねざか)で信長軍に追いつかれて朝倉勢の三千人以上が討ち取られた。

 武之丞もこの戦いで配下の多くを討死させ、かろうじて戦場から脱出したのである。そして今は北近江の余呉で隠棲している畠山義綱に仕え、夕姫と連絡を取り合って御家再興をめざしているという。

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 北國文華 第73号(2017年9月 秋号)掲載原稿より
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