『等伯との旅』 第十九回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第19回「仙洞御所の絵」
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大徳寺の三門(山門)の落慶法要がおこなわれたのは天正十七(一五八九)年十二月五日だった。
長谷川等伯が描いた勢いに満ちた型破りの壁画は都人の度肝を抜き、その名は一躍天下にとどろいた。
時に等伯五十一歳。石もて追われるように故郷の七尾を出てから十八年目のことだった。
この成功を期に、等伯は堺の油屋の娘である清子と祝言をあげた。妙清(みょうせい)という法名だけが記録に残るこの女性の年齢は定かではない。
おそらく等伯と結婚したのは、三十歳前後だったと思われる。
52歳で子宝に恵まれる
油屋は堺でも五本の指に入るほどの豪商で、茶入れの名品、油屋肩衝(かたつき)にその名を遺している。
清子は油屋で商売や経理を学んでいるだけあって、等伯が了頓図子(りょうとんずし)に開いた扇屋「能登屋」を難なく切り盛りした。
そのために店の経営も営業成績も安定し、能登屋は洛中で一、二を争う扇屋に成長していった。
しかも、結婚早々に子宝に恵まれた。天正十八年の春になると、清子が妙にふさぎ込むようになった。そのことを心配した等伯は、侍女のお房にどうしたのだろうとたずねた。
「奥さまは身籠っておられるのではないですか」
等伯の無神経を叱るように、お房はそう答えた。
身に覚えのないことではない。しかし結婚早々に、しかも五十二歳にもなって子宝に恵まれるとは…。
この頃の五十二歳は、現代でいえば六十五歳くらいに相当するのだから、等伯がにわかには信じられないのも無理はなかった。
(しかし、それなら目出たいことである。清子はどうしてふさぎ込んでいるのだろう)
ある日、意を決してたずねてみると、清子は自分などが等伯の子をさずかっては、先妻の静子に申し訳ないと言う。また久蔵(きゅうぞう)も嫌がるのではないかと、気を揉(も)んでいたのだった。
そこで二人は久蔵を呼んでこのことを打ち明けた。すると久蔵はおおらかに笑って、
「何を遠慮なさっているのですか。我々はこれから長谷川派を立ち上げ、狩野派に負けない勢力にしていくのですよ。身内は多いほうがいいに決まっています」
そう言って祝福してくれたのだった。
その言葉通り、この年十一月に生まれた子は宗也と名付けられ、やがて長谷川派を受け継ぐ絵師になる。
私は、等伯の物語に取り組むと決めた時、彼はいったいどんな男だったのだろうと考えた。キャラクターを想像し、しっかりとイメージを固めなければ、小説を書き始めることはできないからだ。
そこで彼の作品を見たり資料を読んだりして造形したのが「大柄で武道にも通じ、生命力にあふれ、我慢強い頑固者」という等伯像である。
大柄で生命力にあふれていることは、大徳寺三門に描いた仁王像を見れば分かるが、五十二歳で子供をさずかったところにも、等伯の生命力の強さが現われているのである。
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北國文華 第73号(2017年9月 秋号)掲載原稿より
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