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等伯との旅

『等伯との旅』 第十八回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/08/30

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第18回「何としてでも実物が見たい」

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 等伯が大徳寺山門の壁画を描くシーンを書く前に、何としてでも実物を見ておきたかった。

 ところが金毛閣は非公開で、一般人の立ち入りは許されていない。そこでいろいろな伝を頼り、特別に見せてもらう方法はないか問い合わせた。すると、美術大学の教授をしている知人が、大徳寺の僧侶と親しいので相談してみると言ってくれた。

 返事は数日後にあった。立ち入りを許可することはできないが、金毛閣は月に一度扉を開けて掃除をしている。それを手伝うご奉仕という形でなら、入ってもらっても構わないというのである。

 その温情あるご配慮のお陰で、二階に上がらせていただくことができた。板戸を開けると外の光が差し込み、等伯が四百二十年前に描いた壁画が目の前に現われた。

 「………‼」

 何という鮮やかな色彩、何という迫力。大胆な構図と原色を多用した絵は、「芸術は爆発だ」と言った岡本太郎を思わせる。

 天井には巨大な円の中に※蟠龍図(ばんりゅうず)、左右には昇龍図と降龍図が描かれている。昇り龍は上求菩提(じょうぐぼだい)、下り龍は下化衆生(げけしゅじょう)を現わしたもので、南北の天井にはそれを祝福するように天女と※迦陵頻伽(かりょうびんが)が舞っている。

 東西の柱には天上の世界の門番のように阿吽(あうん)の仁王像が荒々しい筆致で描かれている。天井の梁(はり)には施主の春屋宗園(しゅんおくそうえん)と寄進をした千利休の名が記されている。

 私はその気迫と斬新さに圧倒されながら、等伯はこの絵をどんな思いで描いたのだろうかと考えた。表現の動機がつかめなければ、この絵を描く等伯をリアリティー豊かに書くことは出来ないからだ。

 それを知る手がかりが二つある。

 ひとつは禅宗における山門の意味をとらえることだ。この門は仏教の修行場である寺と俗界を分ける結界である。それゆえ、これから修行に入ろうとする者が、ひと目で仏界の本質を分かる絵を描かなければならない。

 そしてこの禅寺の本質とモットーは、開山の大燈国師(だいとうこくし)の次の遺誡(ゆいかい)に現されている。

 「汝等諸人(なんじらしょにん)、此の山中に来(きた)って、道(どう)の為に頭(こうべ)を聚(あつ)む。衣食の為にする事莫(なか)れ。肩あって着ずと云う事なく、口あって食らわずと云う事なし。只(た)だ須(すべか)らく十二時中、無理会(むりえ)の處(ところ)に向かって、究め来り究め去るべし。光陰箭(こういんや)(矢)の如(ごと)し、謹(つつし)んで雑用心(ぞうようじん)すること勿(なか)れ」

 お前たちは仏道修行のためにこの山中に集まったのだから、衣食のことなど気にかけずにひたすら修行に没頭せよというのである。

 目標である「無理会の處」とは、学問や知識、常識などが通用しない悟りの境地のことである。ここに至る道は険しく人生は短いのだから、俗世間の雑事にかかわって一生を棒にふるなという。

 

※蟠龍図=地上でうずくまってまだ天に昇らない龍の絵

※迦陵頻伽=極楽にいる想像上の鳥。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしている

 

 なぜ荒々しい筆致なのか

 

 こうした修行者が向かう世界を等伯が絵にしたことは分かったが、筆致をこれほど荒々しく、一見すれば稚拙(ちせつ)とも見えるように描いたのはなぜだろう。もし狩野派なら、もっと調和のとれた安定した悟りの世界を描いたはずだ。

 そう考えていて、ふと赤山禅院(せきざんぜんいん)の叡南覚照阿闍梨(えなみかくしょうあじゃり)に教えていただいたことを思い出した。千日回峰行の最後の段階である堂入りでは、九日間断食、断水、不眠不臥(ふみんふが)の荒行をおこなう。

 そうして実在の仏と出会うが、堂入りの最初の頃には偽の仏が現われて修行者を惑わそうとするという。

 等伯もこのことを宗園(そうえん)から聞いて知っていて、悟りに至る一歩手前で見える世界を描いたのではないか。なぜなら門は境界であり、まだ俗世の匂いを残すところだからである。

 だからあえて荒々しい筆致と原色を用いて幻想的な雰囲気をかもし出し、龍も仁王も天女も妙に人間臭い顔に描いているのだ。

 私はこの絵を描いた等伯をそう解釈した。それが日蓮宗の熱心な信者であり、絵の求道者であった彼にふさわしいと感じたのである。

 天正十七(一五八九)年十二月五日、大徳寺山門の落慶法要がおこなわれた。宗園が導師をつとめ、秀吉以下諸大名が参列した盛大なもので、等伯が描いた壁画は絶賛された。

 魂のこもった前衛的とも言える絵は、狩野派のような美しく調った絵ばかりを見慣れた者に衝撃を与えたのである。

 等伯は蟠龍図(ばんりゅうず)のかたわらに「長谷川等白五十一歳」と署名している。宗園からさずけられた等白の名は一躍天下にとどろいたのだった。

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 北國文華 第72号(2017年6月 夏号)掲載原稿より
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