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等伯との旅

『等伯との旅』 第十七回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/08/23

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第17回「能登が育んだ粘り強さ」
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 この時の等伯について、拙作『等伯』(文春文庫)の中で次のように記している。

 「信春(のぶはる)(等伯)の最大の美質は、愚直なばかりの粘り強さにあった。

 都で育った者のように頭の回転が速くないし、物事を手早く処理することもできない。そのかわり物事にじっくりと取り組み、本質を見極めようとする生真面目さがあった。

 それはおそらく一年の半分を雪に閉ざされて生きる能登の気候と風土が育んだものだろう」

 私はそんな等伯に魅せられて、彼の物語を書きつづけたのである。

 

 等伯の苦闘は一年におよんだ。

 そしてある日、雨上がりの水たまりに映っていた自分を見てひらめいたことがあった。在りのままの自分を見ることはできない。だが在りのままの自分を描くことはできる。すなわち、自分が描いたすべての絵が在りのままの自分なのだ。

 それは借りものの言葉ではなく、自分の内側から出てきた実感であり真実である。答えはこれしかないと勇躍して大徳寺三玄院を訪ねたが、あいにく宗園は留守だった。

 等伯は方丈(ほうじょう)で待っていたが、桐の紋を雲母(きら)刷り※で描いたふすまが次第に気になってきた。縦横に整然と並んだ桐の紋が、ふるさとに降るぼたん雪に見えてきたのである。

 その雪景色は、静子と久蔵(きゅうぞう)を連れて都に出てきた雪の日の情景につながっていた。

 等伯はたまらない郷愁に駆られ、絵筆を取ってふすまに絵を描き始めた。画面の右隅には舟から下りて雪の中を歩き始めた自分たち三人の姿を描き、中央には都の画壇の厳しさを表わした険しい山と、内裏に見立てた宮殿を描く。

 そこを目指しての長い旅が始まったことを示し、画面の左側には一人で画材を背負って歩く男の姿を描いている。それは妻を失い息子と離れ、一人で求道をつづける自分の姿だった。

 様子を見に来た僧たちは血相を変えた。

 「何ということを。これは関白さまから下賜されたふすまでございますよ」

 こんなことをしては豊臣家を汚すも同じだと止めようとしたが、等伯はその腕をふり払って描きつづけた。

 これが高台寺圓徳院に今も残されている「山水図襖(さんすいずふすま)」である。これを見た宗園(そうえん)は、「釈迦(しゃか)は六年、達磨(だるま)は九年。越えがたい問題に向き合う資質と覚悟がなければ、新たな世界を切り開くことなどできない」と言って山門の絵を描かせることにしたのだった。

 ただし、山門の落慶法要を十二月初めにしたいので、それまでに絵を仕上げてくれという。期間はあと半年。初めて大仕事を任された等伯にとって厳しい条件だった。

 山門の間口は五間。その二階部分の天井や壁にくまなく絵を描くのだから、手足となって働いてくれる職人と大量の絵具が必要である。中でも離れた所から絵のバランスや色彩を見て、的確な指示をする者が不可欠だった。

 等伯は息子の久蔵(きゅうぞう)に戻って来てもらいたいと思ったが、永徳(えいとく)の弟子となっているので勝手はできない。そこで永徳に会い、久蔵を返してほしいと頼み込んだ。

 入門させる時に、やがて返してもらうと約束していたので永徳も嫌とは言えない。しかし返したくない永徳は、久蔵を金沢城の仕事につかせ、大徳寺山門の仕事に加われないように仕組んでいた。

 その上、洛中洛外の口入れ屋や画材商に手を回し、等伯が職人を雇ったり、絵具を買うことができないようにしていた。

 (ここまでやるのか。狩野は)

 等伯は名門狩野派の巨大な壁にはばまれて途方にくれたが、ここで屈する訳にはいかない。いろいろ伝(つて)を頼って何とかしようとしていると、ある日、久蔵が金沢からふらりと帰ってきた。

 等伯が窮地に立たされていることを知って、金沢城での仕事を不眠不休で仕上げ、狩野派への義理をはたしてから戻ってきたのである。しかも久蔵を慕う七人の若手まで同行していた。

 この七人を雇えば職人を引き抜いたと見なされ、狩野派との対立は決定的になる。しかし等伯は山門の仕事をやり遂げるためにそれを覚悟し、長谷川派を旗上げしたのだった。

 大きな仕事をやり遂げるには金がいる。職人たちに給金を払わなければならないし、絵具も大量に買っておく必要がある。中でも岩絵具は高価だった。鮮やかな青色にはラピスラズリ、深みのある緑色には孔雀石を粉末にしたものを用いるが、いずれも金や銀と同じくらいの値段がする。

 この難問を解決してくれたのは能登屋の経理を担当していた清子だった。実家の油屋で店の経営を学んでいた清子は、等伯の知らない間に金千二百両(約一億二千万円)を貯(たくわ)えていたのである。

※雲母刷り=雲母(うんも)の微粉を用い、銀粉のような効果を出した紙の装飾技法

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 北國文華 第72号(2017年6月 夏号)掲載原稿より
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