『等伯との旅』 第十六回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第16回「大徳寺山門」
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天正十六(一五八八)年四月十四日、後陽成天皇の聚楽第(じゅらくだい)への行幸(ぎょうこう)がおこなわれた。
関白となった豊臣秀吉は、自らの御殿に天皇の行幸をあおぎ、諸大名を列座させることで、政権の基盤を確かなものにした。
この時、諸大名に出させた誓紙に次の一文がある。
「関白殿の仰(おお)せ聴(き)かせらるの趣(おもむき)、何篇(なんべん)においても聊(いささか)も違背(いはい)申すべからざる事」
秀吉の命令には決して背かないと誓わせたことが、この行幸の目的を如実に現している。この年から朝鮮出兵に踏み切る文禄元(一五九二)年までの四年間が、秀吉の黄金時代と言えるかもしれない。
二つの大きな悩み
都が行幸の余韻にひたっている頃、長谷川等伯は二つの大きな悩みを抱えていた。
ひとつは清子(きよこ)※妙清(みょうせい)との再婚のことである。清子は堺の油屋の娘で、本法寺の日通上人(にっつうしょうにん)の従妹(いとこ)にあたる。日通上人のすすめもあって洛中に開いた扇屋、能登屋の手伝いをしてもらっていたが、二人はいつの間にか心を通い合わせるようになっていた。
ところが等伯には、不遇のうちに死なせた先妻静子への負い目がある。死別して十年がたったとはいえ、自分だけが幸せになるわけにはいかないという思いがあった。
それに一人息子の久蔵(きゅうぞう)への遠慮もあった。二十一歳になった久蔵は、狩野永徳(かのうえいとく)に乞(こ)われて狩野派に弟子入りしている。そして永徳への傾倒を強めているので、等伯としては自分の手元から去っていくのではないかと気掛かりでならない。
そんな時に再婚すると言えば、親子の溝が決定的になるのではないかと、言い出すことができずにいたのだった。
もうひとつの悩みは、大徳寺の山門のことである。この頃、山門(金毛閣)は平屋だった。これでは寺の格式に合わないので、千利休の寄進によって二階部分を建て増しすることにした。
その内側には御仏の世界を表わす壁画が描かれる。能登の七尾で絵仏師をしていた等伯には打ってつけの仕事で、何としても自分に任せてもらいたかったが、施主である春屋宗園(しゅんおくそうえん)に言い出せずにいた。
等伯は利休に紹介され、三年ほど前から宗園に禅の手ほどきを受けていた。
それは水墨画と禅とのつながりに注目し、優れた水墨画を描くためには禅の理解が欠かせないと思ったからだが、修行は遅々として進まない。いまだ門前の小僧程度の理解しか得ていなかった。
そんな身で壁画を描かせてくれと頼むのはおこがましい。そう思ってこちらも言い出せずにいたのだが、ある時、意を決して打ち明けた。
すると宗園は、ここに通うようになって何か分かったかとたずねた。
「心の持ち方を学びました」
「ほう。それならわしにも教えてくれ」
心はどうやって持つ。両手で持つか肩にかつぐかと、宗園は厳しい禅問答を仕掛けてきた。
等伯はその問いに「在りのままの自分でいることだ」と答え、「どうして在りのままの自分かどうか分かるのだ」と追い打ちをかけられると、苦しまぎれに「人にそなわっている仏性に照らせば分かる」と借りものの言葉で答えてしまう。
すると宗園は激怒し、
「お前はまだそんな所をうろついておるのか。
それではとても三門(山門)の絵は任せられぬ」
愛用の※警策(けいさく)で肩といわず背中といわず打ちのめしたのである。
等伯はこの日から在りのままの自分を見るにはどうすればいいか、という問題に直面することになる。正解はどこにあり、自分は何を間違っていたのかと、宗園と真剣勝負をするつもりで答えを追い求めた。
※警策=「きょうさく」ともいう。座禅中の眠けや姿勢の乱れなどを戒める
ため、肩などを打つ長さ1メートルほどの木製の棒
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北國文華 第72号(2017年6月 夏号)掲載原稿より
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