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等伯との旅

『等伯との旅』 第十四回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/08/02

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第14回「等伯に手伝いを求める」

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 等伯にとって松栄は師匠と言うべき人である。

 いったい何の用かといぶかっていると、
「このたび関白秀吉公は聚楽第(じゅらくだい)を築かれることになり、ふすま絵を狩野派が請け負うことになった」
 松栄はそう打ち明け、この仕事を手伝ってもらいたいと言った。

 等伯にとっては夢のような話である。これまで学んできた障壁画の技を生かす絶好のチャンスだが、狩野派の総帥(そうすい)は今や永徳である。永徳もこの話を了解しているのかと尋ねると、松栄は思いがけないことを打ち明けた。
 

 実は永徳が以前に描いた信長の肖像画を、三回忌の法要で用いることになった。ところが秀吉が立派すぎるとクレームをつけたので、肖像画に手を加えて貧相なものにした。
 これを知った朝廷の有力者近衛前久(このえさきひさ)が、永徳だけに聚楽第の絵を任せることに難色を示したので、等伯にも棟梁の一人として加わってもらいたいというのである。
 等伯は喜んで引き受け、狩野図子(かのうずし)(今出川新町の交差点を南に下がったあたり)の永徳の屋敷を訪ねた。

 

 ところが永徳は、等伯を「絵屋風情」と見下した尊大な態度を取りつづけた。頭にきた等伯は、それなら勝負をしようと申し出る。同じ画題の絵を描き、どちらがすぐれているか判定してもらおうとしたのである。


肖像画を描き直させた?


 この設定には史実の背景がある。大徳寺には永徳作の信長の肖像画があるが、これが秀吉の命令によって描き直されていたことが、京都国立博物館の山本英男氏らの調査によって分かったのだ。
 この肖像画は絹地に顔料で着色する「絹本着色」の技法が用いられ、色に深みが出るように裏面からも着色されている。つまり表と裏が合わせ鏡のようになっているはずのものである。

 ところが解体修理をしたところ、表と裏が違っていることが明らかになった。表の絵は薄い青色の小袖を着て、桐の紋は小ぶり。脇差も一本だけしか差していない。表情も貧相で顔の色も悪く、これが信長かと目を疑うほどである。

 絵には、天正十二(一五八四)年五月の墨書があるので、信長の三回忌の法要の直前に制作されたことが分かる。以来、四百年以上も、これが永徳が描いた信長だと信じられてきたが、山本氏らの調査によって裏にはまったく違う信長像が描かれていたことが分かった。

 小袖は緑と茶の二色を使った派手なもので、大ぶりの桐の紋を描き、二本の脇差をたばさんでいる。しかも口ひげの両端がはね上がった雄々しいものだった。
 

 この絵が先に描かれていたが、秀吉が表の絵のように描き直すように命じたのである。

 秀吉は信長の後継者のように目されているが、実は織田家の跡継ぎ問題に巧妙に介入し、政権の乗っ取りを着々と進めていた。そのために信長の威光が光り輝くような絵が使われるのはきわめて都合が悪く、永徳に命じて地味でさえない姿に描き直させたのである。

 このことからも秀吉という男の本性が透けて見えるが、興味深いのは永徳が元の絵をいつ描いたかということだ。信長の三回忌の法要のために描いたが、秀吉が気に入らなかったので描き直したのか。それとも以前に描いていたものを使うことになり、秀吉に命じられて手を加えたのか。
 今のところそれを証(あか)す史料はないが、おそらく後者だろう。なぜならこうした肖像画を描く時には絵師は注文主の意向を聞き、伺(うかが)い下絵を出して、これでいいかと確認を取る。
 建設業者が家の施主に設計図を見せ、承諾を得た上で工事にかかるようなもので、秀吉が注文したものなら、表と裏がそれほど違うとは考えられないのである。

 しかし後者だとすれば、永徳にとって残酷きわまりないことである。なぜなら永徳は信長から天下一の絵師と認められ、安土城の障壁画をすべて任されるほど重用されていた。だから肖像画を貧相に描き直すとは、信長の恩を忘れて秀吉に従うと表明するようなものだからである。

 このために永徳は心ある者たちから見限られ、苦しい立場に追い込まれていたのだった。

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 北國文華 第71号(2017年3月 春号)掲載原稿より
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