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等伯との旅

『等伯との旅』 第十三回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/07/26

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第13回「狩野永徳との対決」

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 天正十(一五八二)年六月に起った本能寺の変によって、長谷川等伯の運命は好転した。

 これまで等伯を目の仇(かたき)にしてきた織田信長が死に、豊臣秀吉の時代になったからだ。

 秀吉は前田玄以(げんい)を京都奉行に任じて洛中の治安維持や朝廷との折衝(せっしょう)にあたらせたが、この玄以と等伯は思いがけない縁で結ばれていた。
 玄以は若い頃に出家して比叡山に入ったが、元亀二(一五七一)年に信長の焼き打ちにあい、前の関白近衛前久(このえさきひさ)の子を抱いて山から逃れようとした。

 ところが、信長勢に囲まれて窮地におちいっていたところを、偶然通りかかった等伯が助けた。このことに恩義を感じていた玄以は、等伯の罪を許し洛中で居住できるように、秀吉に進言してくれたのである。
 そのお陰で等伯は天正十三(一五八五)年から洛中に住むことができるようになった。
 この年に秀吉は関白に就任し、天下人となって信長の方針を次々と覆(くつがえ)していく。等伯が許されたのも、そうした背景があったからだ。
 そこで等伯は都に出て天下一の絵師になる夢に向かって突き進むことになった。ところが、息子の久蔵(きゅうぞう)と二人きりの身の上なので、まずは生活の基盤を確立しなければならない。

 

 そんな時、旧知の絵屋に声をかけられ、了頓図子(りょうとんずし)(三条通りと六角通りを結ぶ衣棚通(ころものたなどお)りの一角)にあった彼の店を引き継ぐことなった。

 時に等伯四十七歳。久蔵は十八歳になっていた。

 これは私が拙作『等伯』(文春文庫)の中で記したことで、史実として明らかなのは等伯が了頓図子で扇を売る店をしていたということだけだ。
 その店をいつからいつまで営業していたかも不明だが、私は三十三歳で上洛した等伯が五十一歳まで世に出られなかったのは、信長政権ににらまれていたからだと考えた。
 だから秀吉が関白になったことで罪を許され、晴れて洛中で活動できるようになったのだろうと推測したのである。

 等伯が絵を描いた扇は飛ぶように売れた。すでに絵の腕は一流の域に達している。しかも染物屋の長谷川家にいたので色彩感覚は豊かで、庶民がどんな絵柄を好むかもよく知っていた。
 ところが困ったことに、等伯には店を経営する才覚がなかった。絵ばかりに打ち込んできたので、人件費や原価計算、材料の仕入れなどに気が回らないのである。
 困り果てていたところに、上洛以来世話になってきた本法寺の日通(にっつう)上人がやってきて、

「従姉(いとこ)の清子を使ったらどうですか」

 と声をかけてくれた。

 清子は等伯が堺にいた時に世話になった油屋の娘である。一度、結婚したものの、子どもが生まれないために実家に帰され、家業を手伝っていた。
 茶道に関心のある方なら、油屋といえば油屋肩衝(かたつき)を思い出されるのではないだろうか。唐物肩衝を代表する茶入れの一つで、油屋常言(じょうごん)、常祐(じょうゆう)父子が所持していたことから、この名がつけられた。

 後に油屋から秀吉に献上され、家康に渡り、江戸時代には茶人として名高い松平不昧(ふまい)が所持するようになった。小ぶりで素朴だが、何ともいえない品格のある天下の名器である。
 油屋はこうした道具を所持できるほどの豪商で、南蛮貿易によって巨万の富を築いていた。清子はこの実家で商売を学んでいるのだから、経理や経営を任せるのにこれほど適した者はいない。
 そこで等伯は清子に経営を任せたところ、能登屋と名付けた店はますます繁盛するようになり、絵師としての等伯の名も知られるようになっていった。

 

 そんな時、狩野永徳の父松栄(しょうえい)が訪ねてきた。

 実は等伯と松栄は不思議な縁で結ばれている。教如(きょうにょ)の肖像画を依頼されて石山本願寺に滞在していた頃、ふすま絵を描きにきていた松栄と知り合った。等伯の才能を見込んだ松栄は、門外不出とされる狩野派の技法を惜しみなく伝授してくれたのである。

 私が物語の中でこうした設定をしたのは、等伯の作品の中には狩野派の影響を受けたものがあり、狩野に弟子入りしていたという説もあるからだ。
 中でも『陳希夷睡図(ちんきいすいず)』の頭巾(ずきん)や衣服の筆法にそれがよく現われている。しかし、三十三歳で上洛した等伯が、今さら狩野派に弟子入りしたとは考えにくいので、機会を得て松栄から教えを受けたということにしたのである。

 

 

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 北國文華 第71号(2017年3月 春号)掲載原稿より
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