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等伯との旅

『等伯との旅』 第十ニ回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/07/19

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第12回「上杉勢、再三の七尾攻め

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 この頃京都では織田信長と十五代将軍義昭(よしあき)の対立が激化し、義昭は諸国の大名にひそかに信長包囲網に加わるように呼びかけていた。上杉謙信はこれに応じ、七尾城の義慶(よしのり)に対して同調するように求めてきたのである。

 ところが義慶は信長に味方する方針を変えなかったために、海運を通じて上杉家と密接な関係にあった遊佐続光(ゆさつぐみつ)や長続連(ちょうつぐつら)、温井景隆(ぬくいかげたか)らは窮地に立たされた。そこで義慶を毒殺して義慶の嫡男春王丸を跡継ぎに立てることにした。

 茶室での密談を立ち聞きした佐代は、夫となった続光を止めるべきではないかと煩悶(はんもん)するが、家中を敵に回すことを恐れて知らないふりを決め込んだのだった。

 ところが天正四(一五七六)年九月、上杉勢一万五千は越中に攻め込み、幼い春王丸では家中の結束をはかれないので、上杉家の養子となっていた上杉義春(畠山義綱の弟)を当主にするように命じてきた。

 謙信はこれを狙って義慶を殺させたのだと気付いた畠山七人衆は、武門の意地をかけて拒絶。一致結束して謙信との戦いに臨むことにした。

 天正四年十二月、上杉勢は越中制圧の余勢をかって七尾城に攻め寄せた。しかし畠山勢は地の利と積雪を生かして、見事にこれを撃退した。輪島の御陣乗太鼓の由来となった村人たちの戦いがあったのは、この時のことである。

 

春王丸に続き、義隆も死去

 

ところが翌年七月、上杉謙信は三万の軍勢をひきい、石動山(せきどうざん)天平寺を本陣として七尾城攻めにかかった。畠山勢は再び籠城して戦ったが、謎の疫病(えきびょう)が城内に蔓延(まんえん)し、城兵が次々と倒れていった。

 前回の敗戦で七尾城の堅固(けんご)さを思い知らされた謙信は、忍びを入れて城中の井戸に毒を入れたと思われる。この疫病のために幼い春王丸が死に、その後を継いで当主になった義隆も死んだ。

 主を亡くした畠山勢の士気は一気に落ち、遊佐続光や温井景隆らは上杉勢の降伏の呼びかけに応じることにした。

 ところが長続連や綱連らは、このまま籠城をつづけて織田信長勢の来援を待つべきだと主張してゆずらない。そこで続光らは九月十五日、長一族を騙(だま)し討(う)ちにして上杉勢を城内に引き入れたのである。

 義隆の死後、主戦派になっていた佐代はこのやり方に承服できず、侍女のお藤とともに本丸御殿で自害しようとする。そこに追手が迫ってきた時、思いがけない援軍が現われた。

 それが誰かは、拙作を読んでのお楽しみということにさせていただきたい。

 この日が九月十五日だったことが『満月の城』のタイトルの由来である。むろん小説なので史実そのままではないが、史料の断片だけでは分からない七尾城の人々のドラマを、かなり史実に近い形で描けたのではないかと自負している。

 そしていつの日かこの作品を舞台化し、能登ともゆかりの深い名優のWさんに、能登演劇堂で佐代の役を演じていただきたいものである。

 物語の最後にいきなり戸が開き、思いがけない救いが現れるという展開にしたのも、背面の扉が開く能登演劇堂での演出を考慮に入れたからだ。その時、空に満月がかかっていたならこれ以上の喜びはない。

 それなら一緒に実現を目ざそうと言って下さる豪胆の士が、どこかにおられないだろうか。

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 北國文華 第70号(2016年12月 冬号)掲載原稿より
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