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等伯との旅

『等伯との旅』 第十一回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/07/12

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第11回「義隆(よしたか)の生母を主人公に

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 そのためには誰を主人公にするべきかと考えた。畠山家の中心にいて、猫の目のように変わる政情に翻弄(ほんろう)され、落城に最後まで立ち合った人物。

 それは誰かと思い巡らしているうちに、最後の城主となった十一代義隆の生母がふさわしいと思うようになった。ところが義隆の生母が誰か分かっていない。しかも十代義慶(よしのり)と義隆はどちらが年上だったかも、二人がどのような状況で死んだ(あるいは生きた)かも不明のままなのである。

 これは小説家にとっては有難い(?)状況である。分からない部分は自由に創(つく)る余地が残されているからで、私は義隆の生母は温井紹春(ぬくいじょうしゅん)の末娘の佐代で、義綱(よしつな)の側室だったということにした。

 紹春の長女は長続連(ちょうつぐつら)の息子である杉山則直に、次女は同じく続連の息子の綱連(つなつら)に嫁いでいる。これほど姻戚関係を重視していた紹春であれば、美貌(びぼう)の末娘を主君の側室にして勢力固めをはかったとしても不思議ではないと考えたのである。

 義綱には正室がいた。近江の六角義賢(よしかた)の娘である。だが二人の間になかなか子供が生まれなかったために、佐代を側室に上げたところ、たちどころに義隆が誕生した。

 これで跡継ぎは義隆だと紹春はほくそ笑んだだろうが、二年遅れて正室にも義慶が生まれた。そのために年下の義慶が後継者と定められた。しかもこうした争いがこじれて、紹春は義綱の不興を買い、謀殺されてしまったのである。

 このために温井家も逼塞(ひっそく)することになり、佐代は孤立無援の立場に追い込まれた。しかし側室であり義隆の生母なので、二の丸の温井屋敷にとどまることを許され、侍女のお藤や数人の家臣とともにひっそりと暮らしていた。

 そんなある日、義綱が数年ぶりに佐代をたずね、義隆を跡継ぎにすると言う。紹春の謀殺以来、遊佐続光と長続連が勢力を伸ばし、義慶に取り入って家中を意のままにしている。そこで彼らの力を削ぐために、義隆を跡継ぎにして温井家の復帰を許すというのである。

 佐代は日陰者のような暮らしから母子共々抜け出せると喜ぶが、ある時、輪島の海で溺れかかった日の幻影に襲われる。子供の頃にサザエやアワビを取りに行き、潮の流れの速い所で海の中に引きずり込まれそうになったのである。

 地元ではその海域には大蛸(おおたこ)が棲(す)み、人を海の中に引きずり込んで食べてしまうと言い伝えられていた。そのことを思い出し、佐代はこの幸せの後ろに何か大きな不幸が潜んでいるのではないかと予感する。

 その予感は的中した。永禄九(一五六六)年十月一日、畠山家では山上の城からふもとの御殿に屋敷替えを行った。雪深い七尾城で冬を過ごすのは難しいので、十月一日から翌年の二月末までふもとで過ごすのが慣例で、七尾の年中行事にもなっていたのである。

 この日、佐代も義綱(よしつな)に同行する予定だったが、杉山則直に嫁いでいる長姉の珠代(たまよ)が、屋敷替えの供は辞退するように言いに来る。理由をたずねても何も言わないので、佐代はもしかしたら義慶(よしのり)派の重臣たちが義隆を暗殺しようとしているのではないかと推測する。

 父紹春(じょうしゅん)を暗殺された経験があるので、佐代にとって、それはいかにもありそうなことだと思われたのである。

 佐代は急病だと偽って供を断わり、義隆を枕元に呼んで屋敷から一歩も出ないように申し付ける。するとふもとの御殿で騒ぎが起こる。華やかな行列を仕立ててふもとの御殿に向かった義綱の一行が、遊佐続光(ゆさつぐみつ)、長続連(ちょうつぐつら)らの軍勢に強要され、そのまま城下を出て能登街道を西に向かって行くではないか。

 遊佐や長ら重臣たちは、合議の末に義綱らを追放し、義慶を十代当主に擁立することにしたのである。しかも佐代の甥に当たる温井景隆(かげたか)(紹春の孫)もこの計略に同意し、畠山家への復権をはたしていたのだった。

 

畠山七人衆による合議制へ

 

 このクーデターによって遊佐続光が重臣筆頭の座に返り咲き、畠山七人衆による合議制が取られるようになったが、義綱もこのまま引き下がりはしなかった。上洛して幕府に遊佐らの非道を訴え、能登守護に返り咲くための援助を要請したのである。

 十四代将軍となった足利義栄(よしひで)はこれを聞き入れ、六角義賢(よしかた)と朝倉義景、長尾景虎(上杉謙信)に義綱の能登入りを支援するように命じた。

 勢いを得た義綱は、永禄十一(一五六八)年五月に手勢千五百、射水の神保長織(じんぼながもと)の軍勢三千、長尾景虎の援軍二千、合計六千五百という大軍を動かして能登に攻め寄せた。

 義綱らは七尾と羽咋の間に位置する玉尾城(多茂城)を拠点として七尾城を威圧し、城内に使者を送って旧臣たちに内応を呼びかけた。

 しかも忍びを送り込み、畠山義隆は義綱と意を通じており、城内には義隆を奉じて内応しようとしている旧臣たちがいるというデマを流させた。このために城兵は疑心暗鬼におちいり、ひそかに城を抜け出す者が続出した。

 七人衆はこれに対抗するために、佐代を遊佐続光の後添いとし、義隆に二本松姓を名乗らせて義慶の家臣にすることにした。

 こうして義慶のもとに権力を集めさせて分裂工作を防ごうとしたわけだが、佐代にとって続光は父紹春の仇(かたき)である。それに応じるのは抵抗があったが、畠山家と義隆を守るために身を捨てるつもりで応じたのだった。

 佐代は輿入(こしい)れの前に、城下の絵仏師長谷川信春(等伯)を招いて自分の肖像を描いてもらう。きれいなままの姿を残したいという思いからで、信春は佐代に輪島の海辺に立っていた頃の気持ちを思い出させることで、心の本質をつかんだ見事な絵を描き上げたのだった。

 佐代の英断によって一致結束した七尾勢は、義綱勢を撃退し、六年の平和を保つことに成功した。ところが天正二(一五七四)年になって思わぬ災いがふりかかる。

 

(つづく)

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 北國文華 第70号(2016年12月 冬号)掲載原稿より
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