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等伯との旅

『等伯との旅』 第十回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/07/05

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第10回「満月の城七尾城
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 テレビドラマや映画がヒットすると、スピンオフ作品が作られることがある。spin offとは「派生させる」とか「副産物を生み出す」といった意味で、ドラマや映画の場合、本編では扱えなかったところを外伝として作品化することが多い。

 『おんなの城』(文藝春秋刊)の中に収録した『満月の城』も、拙作『等伯』を書くための取材から生まれたスピンオフ小説である。

 舞台は能登の七尾城。時代は永禄九(一五六六)年から天正五(一五七七)年までの十一年間。主人公は畠山家九代当主義綱(よしつな)の側室佐代(さよ)である。

 今回は長谷川等伯の人生から少しはなれ、ふるさと七尾で起こったこの物語について記してみたい。

 

繁栄、そして内乱へ

 能登畠山家は七代義総(よしふさ)の頃に最盛期を迎えた。義総は文武両道に秀でた名君で、七尾城を築き、七尾の港を日本海交易の一大拠点に育て上げた。

 また、都から多くの公家、僧侶、連歌師、茶人などを招き、城には一万巻以上の書籍を収集して、七尾に都の文化をそっくり移したような畠山文化を作り上げた。

 戦国時代になって日本海交易が盛んになったことも、畠山家の追い風になった。港を支配している畠山家は、津料(港湾利用料)と関銭(せきせん)(関税)を徴収する権利を持っている。

 これが莫大な額にのぼり、その資金を元手に新たな産業をおこして、七尾は空前の繁栄を誇るようになった。

 天文十三(一五四四)年に七尾を訪ねた京都の禅僧彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)は、城下町の様子を「千門万戸が一里ほども連なり、行商人や座商の者が着物や粟、米、塩、鉄などを売り買いしている」と『独楽(どくらく)亭記』に記している。

 おそらく越前の一乗谷に勝るとも劣らぬ繁栄ぶりで、天文八(一五三九)年に生まれた長谷川等伯も、こうした賑(にぎ)わいと文化的な雰囲気の中で育ったにちがいない。

 ところが巨大な利権があれば、その分け前をめぐって争いが起こるのは世の常である。名君義総(よしふさ)が天文十四(一五四五)年に他界すると、八代義続(よしつぐ)、九代義綱(よしつな)と相次いで立ったが、領主権力はきわめて弱くなった。

 

勢力持った遊佐(ゆさ)、温井(ぬくい)、長(ちょう)

その原因は有力な重臣が、経済力を背景として勝手な動きをするようになったことである。中でも珠洲を拠点とする遊佐続光(つぐみつ)、輪島に勢力を張る温井総貞(ふささだ)(紹春(じょうしゅん))、内海に面した穴水を領する長続連(つぐつら)が、家中を三分する勢力を保っていた。

 いずれも日本海交易の要地に拠点を持っていることが、彼らの経済力が津料や関銭、そして交易によるものだったことを示している。この三人と義続、義綱が四つ巴(どもえ)になり、政争と内乱をくり返すようになったのである。

 それを年表風に記すと次のようになる。

 一五五〇(天文十九)年、能登天文の乱。遊佐続光と温井総貞が対立し、内乱の末に続光が国外に逃亡する。乱の責任を取って義続は隠居、総貞は出家して紹春と名乗る。

 一五五五(弘治元)年、温井紹春暗殺事件。天文の乱に勝って権力を一手に握った紹春を、義続、義綱が暗殺した。温井一党は加賀に逃れて再起をはかる。

 一五六六(永禄九)年、永禄九年の政変。紹春の暗殺後に復帰した遊佐続光と長続連らが、義続、義綱を追放し、義綱の子義慶(よしのり)を擁立した。義綱は妻の父親である六角義賢(よしかた)(承禎(じょうてい))の元に身を寄せる。

 一五六八(永禄十一)年、義綱、能登の回復をめざして七尾城に攻め寄せるが、失敗に終わる。

 一五七四(天正二)年、十代義慶急死。行年二十一歳。病死とも毒殺とも伝えられている。十一代義隆が跡を継ぐ(異説あり)。

 一五七六(天正四)年、上杉謙信の軍勢、七尾城に攻め寄せる。七尾勢は地の利と積雪を活かして上杉勢を撃退する。

 一五七七(天正五)年、上杉勢は旧に倍する三万の大軍で七尾城に攻め寄せる。義隆急死、行年二十一歳。遊佐続光ら、主戦派の長続連、綱連(つなつら)父子を謀殺し、上杉軍を城内に引き入れる。七尾城落城。

 以上、名家の没落を象徴する惨憺(さんたん)たる有様である。

 しかも七尾城の二の丸には遊佐家と温井家が屋敷を並べて住んでいたことや、温井家と長家が二重、三重の婚姻(こんいん)関係を結んで互いの結束をはかっていたことを知ると、戦国の世の非情さが身につまされる。

 男は覚悟あってのことだから、まだ諦めがつくかもしれない。だが政争に巻き込まれ、戦乱のただ中にほうり込まれた女性や子供の苦しみや悲しみ、嘆きはいかばかりだったろう。

 七尾城の苔(こけ)むした石垣をながめながらそんなことを思っていると、ここで生きた女性の物語を書いてみたいという意欲がふつふつとわき上がってきたのだった。

 小説のテーマは、畠山家の没落と苦難の中を懸命に生きる女性を描くことである。しかも七尾城落城という悲劇の中でも、最後は救いのある物語にしたい。 

(つづく)

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 北國文華 第70号(2016年12月 冬号)掲載原稿より
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