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等伯との旅

『等伯との旅』 第九回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/06/14

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第9回「京との交流があった?
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 都に出た等伯は、一条堀川にあった日蓮宗の本法寺(現在は小川通寺之内上ル)に身を寄せた。ここは長谷川家の菩提寺(ぼだいじ)である七尾の本延寺の本山なので、何らかのツテがあったものと思われる。

 等伯はそれ以前にも、絵の勉強や画材の購入のために上京したことがあったはずだ。というのは『等伯画説』(等伯から聞いたことを本法寺の日通上人がまとめたもの)の中に、「七条の道場にある能阿弥筆の『鳴鶴』を、等伯の祖父は見たというが、今はもう無い」と記されているからである。

 祖父とは絵仏師であった長谷川無文(むぶん)のことで、絵の修業のために都の名画を見に行っていたことがうかがえる。等伯も同じように上京し、狩野派や土佐派の絵を目にしたことがあったはずだ。

 また、等伯が七尾にいた頃から、一級品の絵具や紙を使っていたことは、今もほとんど色あせていない「十二天図」などから明らかだが、こうした画材は都でなければ手に入らなかったと思われる。

 それゆえ、上京した時には多くの画材商を回り、自分で試し描きして品質の良し悪しを確かめたことだろう。そうした折には本法寺に立ち寄り、泊めてもらうこともあったかもしれない。

 幸い本法寺は、芸術的な雰囲気に満ちた寺だった。のちに本阿弥(ほんあみ)光悦(こうえつ)を輩出する本阿弥家の菩提寺だし、狩野家とも交流があった。法要などの時には、寺には芸術サロンのように文化人たちが集まり、最新の情報を交換し合っていたはずである。

 その翌年、等伯は「日堯(にちぎょう)上人像」を描いた。修業半ばで斃(たお)れた上人の鋭い気迫と去りゆく無念を見事にとらえた傑作である。

 すでに「日蓮聖人画像」を物(もの)している等伯にすれば、姿を写し取ることはさして難しいことではなかっただろう。だが、上人の内面をどう描き出すかには苦労したはずで、法衣を異例の白衣にしたのは、余計な装飾をはぎ取って上人の内面を際立たせるためだったと思われる。

 この絵は、本法寺に集まる人々の絶賛をあびたはずだが、それ以後、等伯の足取りは忽然(こつぜん)と消え、彼の年表は天正17(1589)年までの17年間、空白が続くことになる。

 その中で、ただひとつ記されているのは、天正7(1579)年6月12日に、妻の妙(みょう)浄(じょう)が他界したということだけだ。

 

織田軍の魔の手から逃れる?

 

 これも推論にすぎないが、おそらく「日堯上人像」が洛中で大変な評判となり、等伯が本法寺にひそんでいることが、織田家に知られたのではないだろうか。

 そして捕縛(ほばく)の手が迫ったために寺にはいられなくなり、日堯上人の実家である油屋を頼って堺に落ちのびたものと思われる。

 堺では、油屋ゆかりの日蓮宗妙国寺に身を寄せていたのだろうが、信長の魔の手はこの寺にも迫ってきた。天正7年5月に信長は浄土宗と日蓮宗の僧に安土(あづち)で宗論をさせ、一方的に浄土宗の勝ちを宣言して、日蓮宗の弾圧に着手したのである。

 この宗論には妙国寺の普伝(ふでん)も加わり、信長の怒りを買って打首にされた。しかも、これ以後信長には一切逆らわないという誓文(せいもん)を書かされたために、寺への信長勢の立ち入りを拒むことができなくなった。

 そこで等伯は、寺に迷惑がかかるのを避けるために妙国寺を出て行くことにするが、折悪しく妻の妙(みょう)浄(じょう)が重病をわずらっていた。明日をも知れない危険な容体だが、等伯は妻を背負い、12歳になっていた久蔵(きゅうぞう)を連れて、七尾へ戻ることにする。

 

遠ざかるほど有難さ痛感

 

 故郷の空気にふれ、幼い頃から親しんだ食べ物を食べれば、病気が治るのではないかと考えてのことだが、妙浄は敦賀の港に着いた時についに力尽きたのである。

 私はこのシーンを物語の前半の山場として描いた。第5章「遠い故郷」がそうである。

 自分のせいで苦労の多い人生を送り、今まさに死のうとしている妻を荷車に乗せて懸命に故郷に向かう等伯の姿に、作家を目指して上京し、苦難の道を歩み続けた30数年の歳月と、それを支え続けてくれた妻のことを重ね合わせ、涙を流しながら原稿を書いた。

 おそらくそれは、故郷を離れ都会に就職した方々すべてに共通する思いではないだろうか。拙作『等伯』に多くの方々が共感していただいたのは、そうした思いがあるからだろう。

 人はふるさとから遠ざかるほど、ふるさとの有難さを痛感するものなのである。

(つづく)

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 北國文華 第69号(2016年9月 秋号)掲載原稿より
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