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等伯との旅

『等伯との旅』 第八回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/06/07

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第8回「七尾から京を結ぶ大動脈
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次に等伯はどの道をたどって京都へ行ったか、突き止めなければならない。

 これも史料が残っているわけではないので、当時の交通事情や等伯ゆかりの地をもとに考えることにした。

 畠山義総の頃、七尾には京都から数多くの公家や僧侶、歌人や学者などが訪れていた。

 そのルートは都から大津に出て、船で琵琶湖をわたって塩津に着き、北国街道を通って敦賀に入る。そこから船で羽咋に向かい、羽咋から邑知潟(おうちがた)をわたる。当時、邑知潟は能登半島の中央部まで湾入していたので、船を下りて七尾街道を20キロほど歩けば、七尾の城下に着くことができた。

 おそらく等伯は、このルートを逆にたどって都に向かったものと思われる。

 私はそのことを確かめるために、七尾から羽咋まで車で走り、あたりの地形や邑知潟がどこまで湾入していたかを調べた。

 そしてこのルートがきわめて平坦で、日本海海運と七尾湾をつなぐ大動脈であることが分かった。おそらく気多大社や石動山天平寺が栄えたのは、こうした物流や交通の要所だったからだろう。

 羽咋まで出た等伯たちは船で敦賀まで行ったが、前途に思わぬ障害が待ち受けていた。元亀2年のこの年、越前の朝倉義景(よしかげ)と都を制した織田信長が戦争に突入していたからだ。

 前年の4月、信長は敦賀の金ケ崎城を攻めたが、北近江の浅井長政が朝倉方と通じて挙兵したために、退却を余儀なくされた。

 信長はすぐに態勢を立て直し、3カ月後には姉川の戦いで浅井・朝倉の連合軍を打ち破り、越前に進攻する機会をうかがっていた。

 そのために敦賀から塩津へ向かう北国街道は封鎖され、琵琶湖に出ることができなくなっていた。そこで等伯は妻子を敦賀の寺へ預け、単身、尾根伝いの道をたどって比叡山に向かい、延暦寺を抜けて都に向かうことにした。

 ところが、不運にも、9月12日に起こった信長の比叡山焼き討ちに巻き込まれ、織田家の包囲網を突破して脱出することになったのである。

 

17年の「空白」

 

 私がそう考えたのは、等伯が上京してから17年もの間、世に出ることができなかったからだ。すでに天下に通用する力量を持っていながら、天正17(1589)年に大徳寺山門の壁画を描いて衝撃のデビューを果たすまで、確認できる作品の数も少なく、どこに住んでいたかさえ分からない。

 (いったいなぜ、こんなことが起こったのか?)

 その答えは、信長の存命中は世の中に出ることができなかったからと考えるのが、最も妥当ではないか。そして、その原因となったのは、比叡山焼き討ちに遭遇した等伯が、織田家の兵を殺傷したことにあるのだろう。

 私はそう考え、比叡山の大量殺戮(さつりく)の中で、幼な児(ご)を助けるために、等伯が刃をふるうシーンを描いた。

 等伯の生家である奥村家は、畠山家に仕える武士だった。等伯も長谷川家に養子に入るまでは武道を叩き込まれ、それなりの力量を身につけていたはずである。

 しかも等伯は、「枯木猿猴図(こぼくえんこうず)」などからうかがえるように、深く熱い家族愛の持ち主だった。それゆえ、久蔵(きゅうぞう)と同じくらいの幼な児が殺されそうになっているのを、黙視することができず、敵から槍(やり)を奪い取り、4、5人を打ち倒して追い払った。

 後にそれが等伯の仕業だと分かり、信長配下の京都所司代から追い回されることになったと思うのである。

 ついでながら、大徳寺の三玄院のふすまに描いた「山水図」に、等伯と妙浄(みょうじょう)、久蔵とおぼしき3人が描かれている。

 ちょうど船から下りたところで、あたりには雪がしんしんと降っている。妙浄は久蔵をかばって傘をさしかけ、その少し前を笠をかぶり蓑(みの)をつけた等伯が、前かがみになり肩をすくめるようにして歩いている。

 私は高台寺の塔頭(たっちゅう)である圓徳院(えんとくいん)で初めてこの絵を見て以来、これは都に出る時の家族の肖像だと固く信じているのである。

(つづく)

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 北國文華 第69号(2016年9月 秋号)掲載原稿より
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