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等伯との旅

『等伯との旅』 第七回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/05/31

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第7回「七尾から都へ」
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長谷川等伯の絵師としての力量は、すでに能登の七尾にいる頃から一流の域にたっしていた。

 そのことは羽咋市の正覚院に収められている「十二天図」や、高岡市の大法寺にある「日蓮聖人画像」を見れば明らかである。

 仏法を守護する十二天を描いた「十二天図」は、鮮やかな色彩と勢いのある線を用いて、それぞれの像の特長を見事に現している。

「日蓮聖人画像」は日蓮の強い意志と高潔さを描ききっていると同時に、身にまとう法服や七条(しちじょう)袈裟(けさ)、前机やそれにかけた卓(たく)布(ふ)、机の上においた経巻(きょうかん)などが精密に描写されている。

 等伯26歳の作だが、豊かな色彩感覚といい、インドの細密画(さいみつが)を思わせる細やかな描写といい、すでに生涯最高の水準に迫っていると言っても過言ではないだろう。

 そうした作品の噂(うわさ)は、北陸ばかりか京都にも伝わり、高位の僧侶や公家にも等伯の名は知られていたものと思われる。おそらく等伯自身も、いつかは都に出て天下一の絵師になりたいと願っていたことだろう。

 

 上洛を裏付ける史料なし

 

 その機会は33歳の時に訪れた。この年、養父の長谷川宗清(むねきよ)と養母の妙相が亡くなり、養子として入った長谷川家を守る義務から解放された等伯は、妻の妙浄(みょうじょう)(作中では静子)と4歳になる息子の久蔵(きゅうぞう)をつれて都に向かうことにしたのである。

 ところが、それを証(あか)す史料はない。実を言えば、等伯が何歳で都に出たのか明確な記録はなく、33歳頃ではないかと推定されているばかりである。

養父母がこの年に亡くなったことは分かっているが、どんな理由、状況で亡くなったかは謎のままである。

 しかし、小説に書く場合には、こうしたことをあいまいにしてはおけないので、分かっていることをもとに等伯が置かれていた状況を推理していくしかない。

 まず注目したのは、養父母が同じ年に亡くなったことだった。しかも等伯は、その後も養父に対して恩義とともに負い目のようなものを感じている。34歳の時に描いた「日堯(にちぎょう)上人像」に「父道(どう)浄(じょう)(宗清の法名)六十五歳」と記しているのがその現れである。

(これはいったい、どういうことなのか)

 犯罪心理分析官のように考えをめぐらし、等伯は養父母が死んだのは自分のせいだと思わざるを得ない体験をしたのではないかという結論に達した。

(宗清は等伯の才能を惜しみ、都に行って自由に画業に打ち込めるように、妻とともに自害したのではないか)

 初めはそう考えてみたが、当時の七尾と能登畠山家の政情を学ぶにつれて、それだけではないように思えてきた。

 

政変の影響で故郷去る?

 

 等伯が上洛したのが33歳だとすれば、元亀2(1571)年になるが、その5年前、能登では「永禄9年の政変」と呼ばれる事件が起こっている。主君畠山(はたけやま)義(よし)綱(つな)の方針に反発した重臣の長続連(ちょうつぐつら)、遊佐(ゆさ)続光(つぐみつ)らが、義綱とその父義(よし)続(つぐ)を追放したのである。

 義綱は重臣らの非法を幕府に訴え、近江の六角承(ろっかくしょう)禎(てい)、越前の朝倉義景(よしかげ)、越後の長尾景(かげ)虎(とら)(上杉謙信)らの支援を得て、領国への復帰を果たそうとした。追放から2年後の永禄11(1568)年のことだ。

 これに対して、長や遊佐らは、義綱の嫡男義慶(よしのり)を擁立し、義綱が率いる守護大名の連合軍を撃退した。ちょうどこの年、織田信長が足利(あしかが)義(よし)昭(あき)を奉じて上洛し、六角承禎や将軍義(よし)栄(ひで)を追放したために、こうしたことが可能になったのである。

 しかし、義綱はその後も長尾景虎や越中の神保(じんぼ)長職(ながもと)らの支援を受け、領国への復帰のための戦いを続けた。畠山家中や七尾城下の住民の中には、義綱を支援する者もいて、厳しい対立をふくんだ緊張状態が続いていたのである。

 こうした中、等伯や長谷川家は、畠山義続、義綱側に与(くみ)していたと思われる。当時の絵師は権力者の庇護(ひご)がなければ、仕事を続けることができなかったからだ。

 そのことは京都の妙伝寺に伝わる等伯筆の「法華経(ほけきょう)本尊(ほんぞん)曼荼羅図(まんだらず)」からもうかがうことができる。この絵の中央下には僧形の「悳(とく)祐(ゆう)」と「兆(ちょう)桂(けい)」が描かれているが、悳祐は畠山義続、兆桂はその妻のことなのである。

 能登畠山文化を創出した畠山義(よし)総(ふさ)(1491~1545)の頃から、長谷川家は畠山家の世話になっていた。

 それゆえ、「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちの反乱によって畠山家が没落したとはいえ、心情的にも恩義的にも畠山家に加担せざるを得ない立場にあったはずである。

 それゆえ、七人衆からは、危険人物と見なされ、何らかの迫害を受けたのだろう。それが元亀2(1571)年の養父母の死につながり、等伯は石もて追われるように故郷の七尾を離れた。

 私はそうした推論にもとづいて拙著『等伯』の第1章「京へ」、第2章「灼熱(しゃくねつ)の道」を書いたのであった。

(つづく)

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 北國文華 第69号(2016年9月 秋号)掲載原稿より
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