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等伯との旅

『等伯との旅』 第六回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/05/24

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第6回「日本三大山城『七尾城』へ
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 翌日は七尾城へ行った。

 城を訪ねるのは3回目。最初は集英社新書で『戦国の山城をゆく』を作った時。日本三大山城のひとつと言われる七尾城を取り上げた。2回目は2002年にNHK大河ドラマ『利家とまつ』が放映された時、ガイドブックに紹介記事を書くために取材に訪れた。

 同じ城を見ても、目的や知識の有無によって印象はずいぶん変わる。しかも七尾城は少しずつ整備が進み、明らかになったことも多いというので、今度はどんな表情を見せてくれるか、大いに期待しながらレンタカーを走らせた。

 まずふもとの七尾城史資料館でなじみ深い展示物を拝見してから、曲がりくねった尾根の道を登って城跡へ向かった。七尾の地名の由来は、城山からふもとに向かって七つの尾根が走っていることだというが、その中でもこの尾根と大手道のある尾根が最も重要である。

 木落川(きおとしがわ)(蹴落(けおとし)川)の両側につづくこの2本の尾根によって城は守られ、城下町との交通を確保しているからだ。

 堀切(ほりきり)の跡にかけられた土橋(どばし)をわたって城内に入った。狭い道の左側には断崖(だんがい)がそびえ立ち、何人(なんぴと)も寄せつけない天然の要害(ようがい)となっている。

 その先に広がる「調度丸(ちょうどまる)」という曲輪(くるわ)は、城で用いる調度品を保存しておくための蔵が建ち並んでいたところである。そこに立って本丸を見上げると、杉林の中に埋もれるように何段にも折り重なった石垣がつづいている。

 
 桜馬場や遊佐(ゆさ)屋敷、本丸を守るために築かれたもので、城門や桝形(ますがた)の跡もはっきりと残っている。山頂にしては大きな石を積み重ねた石垣が、緑色のこけにおおわれて杉林の中に整然と並んでいる見事さは、他に比類がないほどである。

 遊佐屋敷から本丸までは垂直にちかい険しい石段がつづき、左側には2段の曲輪が配してある。敵に攻められた時に迎え討つためのもので、その上に本丸の石垣がそびえている。石段の右側には、横からの侵入を防ぐための石塁(せきるい)がきずいてある。

 太股やふくらはぎの痛み、動悸(どうき)や息切れに体力の衰えを痛感しながら石段をのぼりきると、広々とした本丸に出た。

 石垣の際まで出て眼下を見渡すと、新緑の山々と青く澄んだ七尾湾が広がっていた。

 この美しさ、優雅さは、日本三大山城の中で、いや、おそらく日本中の山城の中でも群を抜いていると思われる。等伯の美的感覚は、この自然によって育まれ、磨き上げられたと言っても過言ではないだろう。

 それは私だけの感想ではない。天正5(1577)年9月に七尾城を攻め落とし、本丸からの景色をながめた上杉謙信は重臣にあてた手紙の中で次のように記している。

 〈聞きしに及び候(そうろう)より名地、賀、越、能の金目(きんもく)の地形と云い、要害山海(さんかい)相応し、海頬(うみづら)嶋々の躰(てい)までも、絵像に写し難き景勝までに候〉

 これを現代語に訳すれば、およそ次のようになるだろう。

 「噂に聞いていたよりずっと素晴らしい所だ。加賀、越中、能登の中心を占める地形といい、城構えと山海との調和、海岸線や島々の姿までもが、絵に描き写すことができないほど見事な景色である」

 天下の英雄をうならせた絶景を、多くの方々にぜひ一度見ていただきたいものだ。

 

京に劣らない文化の街

 

賀、越、能の金目(きんもく)の地形とは、単に地理的な意味ばかりではない。当時、能登は日本海海運の要地であり、その中心的な役割を七尾湾は果たしていた。春から秋にかけて多くの

船が出入りし、各地の産物を売買する店がずらりと建ち並ぶ一大商業都市だったのである。

 中でも畠山家の7代当主である義総(よしふさ)(1491~1545)は、文武両道にひいでた名君で、畠山家の全盛時代をきずいた。その頃に能登をおとずれた彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)という僧は『独楽亭記(どくらくていき)』の中で次のように記している。

 「城下には千門万戸があって城府につらなり、およそ一里にあまる。呉綾蜀錦(ごりょうしょっきん)、粟米塩鉄、行商あり座売りあり」

 城から港まで約4キロにわたって、城下町がつづき、呉の綾(あや)や蜀の錦(にしき)(呉服などの着物)や粟米(食料品)、塩鉄などを、行商人や棚売りの店が商っているというのである。

 この頃、義総は都から公家や僧、連歌師や茶人、絵師などを招いて畠山文化と呼ばれる一時代をきずいていた。繁栄をきわめる城下町はそうした文化的雰囲気に包まれ、京の都にも劣らぬ詩歌文芸の花が咲いていた。

 義総治世の末期に生まれた等伯は、そうした空気を胸いっぱいに吸い込んで幼少期を過ごした。そのことが天下一の絵師をめざす上で、大きな財産となったのである。

(つづく)

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 北國文華 第68号(2016年6月 夏号)掲載原稿より
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