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等伯との旅

『等伯との旅』 第五回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/05/17

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第5回「田んぼから分かる能登人の気性
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 空港でレンタカーを借り、能越自動車道(のと里山海道)を通って七尾市に向かった。道は平坦で交通量も少ないので、あたりの景色を楽しみながら快適なドライブができる。

 第一印象は起伏の少ない地形だということだ。高い山がなく、丘のようになだらかな森林地帯がつづいている。新緑の時期で木々が萌葱(もえぎ)色(いろ)の新芽につつまれている。山の間には狭い耕作地があり、田植えを終えたばかりの田んぼが整然と並んでいる。

 私も農家の生まれで、子供の頃から仕事を手伝ってきた。それゆえ田んぼの区画の仕方や稲の植え方で、その土地の人々の暮らしぶりや気性がだいたい分かる。能登の棚田は実に几帳面に作られ、こまやかに手入れが行き届いていた。

 七尾美術館を訪ねるのは初めてだった。後に学芸員の北原さんや的場さんの知遇を得、等伯の人生や作品について貴重なご教示をいただくことになるのだが、この時はアポイントを取らずに入館させていただいた。

 等伯について何の勉強もしていないし、小説を書けるかどうかも分からないので、自由に気楽な立場で作品に触れたかった。

 そのせいか、どんな作品が展示してあったのか、あまり記憶にない。『陳希(ちんき)夷(い)睡図(すいず)』の自在な筆遣いや『達磨図(だるまず)』の力強さは印象に残っているが、それを深い意味でとらえるほどには、私の目は成熟していなかったようだ。

 有り難かったのは、ロビーの一角に作られたビデオコーナーだった。等伯の人生や作品について簡潔にまとめたビデオが4本ほどあって、好みに応じて視聴できるようになっていた。

 私はすべてを視聴し、等伯についてのおおまかなイメージをつかむことができた。

 天文8(1539)年の生まれで、織田信長より5歳下であること。能登畠山家の家臣である奥村家に生まれ、染物屋の長谷川家の養子となって絵仏師(仏画を描く絵師)として修業をつんだこと。33歳とおぼしき頃に、妻子をともなって都に出て日蓮宗本法寺に身を寄せたこと。

 それから18年後に、大徳寺の山門(金毛閣(きんもうかく))の壁画を描いて脚光をあびるが、その間の足取りはほとんど分かっていない。はっきりしているのは、天正7(1579)年、41歳の時に妻(法名妙(みょう)浄(じょう))を亡くしたことくらいである。

 金毛閣の絵を描いた後は、朝廷や豊臣秀吉から絵を依頼されるほどの活躍をするが、文禄2(1593)年には長男であり愛弟子であった久蔵(きゅうぞう)が急死する。その数年後に描いた『松林図(しょうりんず)』は 久蔵の死を悼(いた)む気持ちを昇華させた結果だという。

 流れるようなカメラワークでビデオの画面いっぱいに映し出された『松林図屏風(びょうぶ)』を見ていると、雪山の松林にただよう幽幻の霧には、確かに等伯の深い悲しみと死者の成仏を祈る切実さが満ちている気がした。

 もうひとつの収穫は、充実した図録だった。七尾美術館では毎年、等伯にまつわる特別展を開いている。そのたびに詳細な図録を作り、廉価で販売している。そうした図録が10冊ちかくあり、まとめれば立派な等伯作品集になるのである。

 担当者と地元の方々の、等伯に対する敬愛の結晶のような図録を買い求め、私は大満足で美術館を後にした。

 その夜は市内のホテルに泊まり、近くの居酒屋で能登の酒と肴(さかな)を堪能した。地元の常連がつどう店で、地酒を飲みながら旬の肴をいただくのが一人旅の何よりの楽しみである。

店の主人や常連客の話を聞いているだけで、土地の人たちの気性と性格がだいたい分かる。

 能登の方々は大変優しく行儀がいいが、ひどく強情な一面があって、納得いかないことには妥協しないという侠気を持ち合せておられるようだ。酒が回るとその侠気(きょうき)がますます磨(と)ぎすまされてくるらしい。

 1時間くらい黙って酒を飲んでいると、たいがい誰かが声をかけてくれる。どこから来たのか、何をしに来たのか、明日はどうするのか。そうした質問に答えているうちに、取材についての貴重な情報を与えていただくことが多い。

 この夜も等伯や七尾城、青柏祭やデカ山について話が盛り上がり、私は片手でメモを取り、片手で酒を飲むという数時間を過ごしたのだった。

(つづく)

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 北國文華 第68号(2016年6月 夏号)掲載原稿より
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