『等伯との旅』 第四回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第4回「絶景七尾城」
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若い頃から一人旅が好きである。
17歳の時には身の内からわき上がる得体の知れない感情を持てあまし、自分の体をさいなむように九州一周の自転車旅行に出た。20歳の時には太宰治の文学に魅せられ、彼の足跡をたどりたくて津軽半島を旅して回った。
旅は古い自分と決別し、新しく生まれ変わるきっかけである。日常性から離れて知らない世界に身をおくからこそ、そうした経験も可能になる。友人知人が一緒だと日常性を引きずってしまうし、連れに気を使うので新しい世界への感度が鈍る。
それゆえ長谷川等伯と出会う旅も、一人で行くことにした。羽田空港から能登空港行きの飛行機に乗り、窓側の席に座ってぼんやり外をながめていると、左側に雪の溶け残った富士山が見えた。あれは5月末か6月初めだったろう。
この日は天気も良く、上空8千メートルからは日本列島を地図に描かれたように見渡すことができた。あそこが南アルプス、あれが千曲川と、機内におかれた地図と眼下の景色を照らし合わせながら、自分の位置を確かめる。
飛行機が発明されたお陰で我々は鳥の目を持ち、地上に生きる我が身の小ささを実感できるようになった。ロケットに乗って大気圏の外に飛び出し、宇宙から地球を見た飛行士は、神の存在を意識するようになるという。
そんなことを考えているうちに、時間をこえる目があることに思いいたった。それが表現である。
スペインのアルタミラ洞窟(どうくつ)の壁画を見れば、1万年前の人々がどんな思いで野牛や猪などを見ていたかがよく分かる。『蜻蛉(かげろう)日記』(藤原道綱の母著)を読めば、およそ千年前の女性がどんな気持ちで生きていたか、まざまざと伝わってくる。
思えば、そうした表現の永遠性に魅せられて、私も作家になろうと決意した。
中学2年生、14歳の時である。兄が突然、交通事故で他界した。いつものように元気に出勤し、その日の夜には棺(ひつぎ)に入れられて帰宅した。
思春期のさなかにあった私は、この現実を受け容れられなかった。兄を失った悲しみがようやく薄らいだ頃には、人間は死んでしまうという現実が巨大な壁のような動かし難(がた)さで迫ってきた。
夜眠ろうとすると、お前もいつかは死ぬのだぞ、という声がどこからともなく聞こえてくる。そのたびに足許(あしもと)にぽっかりと開いた穴にどこまでも落ちていくような恐怖にとらわれ、眠ることができなくなった。
そんな夜を幾夜もすごすうちに、この恐怖から逃げては駄目だと気付いた。逃げようとすれば、死神は図に乗って猛然と追いかけてくる。正面から死の正体を見据えないかぎり、この恐怖から逃れることはできない。
そう気付いてから、人間はなぜ死ぬのかと懸命に考えた。考えて考えて考え抜いた果てに、これは生まれた者の宿命だから仕方がないと思えるようになった。
「人はみんな、必ずいつかは死ぬ」
その事実を受け容れ、死んでしまう人間はどう生きるべきかと考えるようになった。そして生きた証を残すことこそ、死をこえて生きる唯一の方法だと思った。プロの作家になろうと決意したのは、それから5年後のことである。
等伯もそうだったのではないか。巨大な仏(ぶつ)涅槃図(ねはんず)、絢爛豪華な金(きん)碧(ぺき)障壁画(しょうへきが)、幽幻を極めた松林図(しょうりんず)屏風(びょうぶ)など、生涯にわたって傑作を残しつづけたのは、生きた証を残したいという強烈な欲求があったからではないだろうか。
文学と美術という分野こそちがえ、その一点においては等伯とつながれるのではないか。そんな着想を得て、私は能登空港に降り立ったのだった。
(つづく)
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北國文華 第68号(2016年6月 夏号)掲載原稿より
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