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等伯との旅

『等伯との旅』 第三回【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/05/03

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├┼┐『等伯との旅』
│└┼┐ 第3回「この人なら書ける」
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絵師といっても狩野派、土佐派、曽我派、そして長谷川派など、数多くの名人たちがいる。さて、誰を取り上げようかと考え、最初は狩野永徳がいいのではないかと思った。

 

永徳は安土桃山文化を代表する華やかな金(きん)碧(ぺき)障壁画を数多く残しているし、信長や秀吉との縁も深い。

『洛中(らくちゅう)洛外図(らくがいず)屏風(びょうぶ)』や安土城の壁画を手掛けたことは、一般的にも知られている。

しかし彼の生涯を調べていくうちに、これは自分には書けないと分かってきた。

 

名門狩野派の4代目、少年の頃から天才ともてはやされ、陽のあたる道ばかりを歩いてきた永徳の生き方は、自分とはあまりにかけはなれているので、共感することができなかったのである。

 

「それなら長谷川等伯がいいですよ」

 

そう教えて下さったのは、さし絵画家の西のぼるさんである。

西さんは能登半島の珠洲のご出身で、同じ能登に生まれた等伯を幼い頃から尊敬しておられたという。

そうか。そういう絵師がいたのかと、図書館に行って画集を開いてみた。

驚いたのは絵の多彩さである。仏画、肖像画、水墨画、金碧障壁画など、雑多と思えるほど多くの分野にわたっている。

しかしひとつひとつをじっくり見ていると、どれも気迫のこもった作品ばかりで、心を打たれるものがある。

肖像画に込められた深い人物理解、『波涛図(はとうず)』の斬新さ、『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』にただよう家族への愛情とやさしさ、そして『松林図』の衝撃。

(いったいどんな人だろう)

わくわくしながら資料を調べてみると、人生のすべてを絵にかけた凄(すさ)まじい生きざまだということが分かった。

 

この人なら書ける

 

生まれは天文8(1539)年。信長より5つ歳下である。

畠(はたけ)山(やま)家の家臣である奥村家に生まれ、染物屋の長谷川家に養子に出された。

ここで染色と絵仏師の技を叩き込まれ、33 歳の時に養父母を相ついで失った。

しかし等伯は、この不幸を契機として妻子をつれて上洛(じょうらく)し、絵師の道を歩み始める。

すでに技量は天下に通用するレベルに達していたが、どうした訳か上洛して18年もの間、世に認められることはなかった。

そうした不遇の中で妻を死なせたこと、そして天下に認められて間もなく息子の久蔵(きゅうぞう)を失ったことが、家族への愛惜となって『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』の中にただよっている。


この人なら書けると思った。


地方で生まれ育ち、都に出て数々の苦難に直面しながら、それでも自分だけの表現を求めて画業に打ち込んだ姿が、小説に打ち込んできた自分の姿とよく似ている。

等伯のような天才と比べるのはおこがましいが、私も福岡県の八女(やめ)に生まれ、作家をめざして上京し、勤めていた区役所を29歳で辞め、1円の収入もない4年間を耐えた末に、33歳でプロの作家としてデビューすることができた。

それからも新しい戦国時代像を描こうと悪戦苦闘をつづけ、20年ちかくを過ごしてきたのである。

そうした折々に直面した出来事を、等伯の人生に投影するように描いたなら、きっといい作品に仕上げることができる。

そうした手応えを感じ、まずは等伯が生まれた七尾に取材に行くことにした。


人間の本質は生まれ育った郷土を見ればよく分かる。

七尾を見て深い共感を抱くことができたなら、等伯を描くことに決めよう。そんな思いで、羽田から能登空港行きの飛行機に乗った。


『等伯』の執筆にかかる5年前のことだった。


(つづく)

 

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 北國文華 第67号(2016年3月 春号)掲載原稿より
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