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哲学の道から(5) 鈴木大拙館<事務所代表 森のfacebookより転載>

Date:2019/03/22

※事務所代表 森のfacebookより転

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週末の晴れ上がった朝、等伯忌へ参列するため金沢から能登七尾へ向かう。新幹線の車窓から見る長野あたりに雪がない。いつもと違う風景を、ただ見つめているばかりである。
駅から車で金沢城から兼六園を過ぎ「鈴木大拙館」へ降り立つ。


この門前から心の水面がさざめきに変わる。
何ほどか粛然とするのだ。
「日本的霊性」を読み、鈴木大拙が言う「この国この地に棲む霊性」を感じることがある。旅先の寺社やまして身近な散歩道にさえ、心へ澄みわたる何者かを感じるのだ。浅学の身に何程の事も言えないが、この国に霊性は確かにあるのだと気づかせてくれた。


先年、心停止という彼岸から戻り、今ここに居る自らの意味を問わずにはいられなかった。だが、まだ答えなど見つかっていない。歩いてきた道、そして今日を歩き明日から歩く道そのものが生きるという事かもしれないと考えはじめてはいるのだが。
眼前のさざ波の向こうから、足もとに彷徨う気づきを与えてくれる。
脇の小道を抜けて、裏山に登る道から裏庭を見下ろしていると、透明な春の風が石段を駆けて行った。子供のころの私がいる。


散策路をぬけた公園に終わりを迎える山茶花が日差しに眩しく咲いていた。
美術館へいたる石段の脇では、高台からの疎水が勢いよく流れ落ちている。湧き水が豊富な金沢の風景である。苔満ちた美術館の裏道を楽しむ。清水をたたえた「鈴木大拙館」を去年と同じように見下ろした。

碧深い木々の向こう、見えるはずもない水面に刻のさざ波がゆれている。

鈴木大拙館
 

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<スタッフ後記>

写真からは、このオフィシャルサイトでも何度も取り上げさせていただいた

安藤忠雄さんの建築を思い出させます。

何も言葉は発していないはずなのに、無言のプレッシャーを感じます。