『歴史の真相』第十六回 ~蒲生氏郷は毒殺されたのか?~
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■ 質問
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蒲生氏郷は毒殺されたのでしょうか?
(兵庫県・Dさん)
■ 回答
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氏郷毒殺説は二つあります。
ひとつは氏郷が葛西・大崎一揆の鎮圧に出かけた時、伊達政宗に毒を盛られたというものです。
豊臣秀吉による小田原征伐が終った天正十八年(一五九〇)八月、氏郷は会津四十二万石(後に九十二万石)を与えられて伊勢の松阪から転封します。
奥州仕置(領地分配と検地や刀狩りなど)を監督することと、政宗の動きに備える役目を負っての赴任でした。
その二カ月後、葛西、大崎氏の旧臣たちが、奥州仕置に反対して一揆を起こします。これは政宗が氏郷に与えられた伊達家の旧領を取り戻そうと、背後で糸を引いて起こしたものでした。
奥州の冬に慣れていない氏郷は、雪が解けるまでは動けないと見て計画したことですが、氏郷は雪中行軍を敢行し、一揆勢の拠点を次々と攻め落としていきます。
政宗は表向きはこれに協力しなければならない立場にありますので、このままでは決起させた一揆衆を裏切らざるを得ない立場に追い込まれました。
そこでこの窮状を脱するために、黒川郡の下草城(宮城県大和町)での茶会に氏郷を招き、毒殺しようとしたのです。ところが氏郷はこれを察し、事前に「西大寺」という解毒剤を飲んでいたので難を逃れました。
もうひとつは、それから三年後の文禄二年(一五九三)。朝鮮出兵のために肥前の名護屋に出陣していた氏郷は、急に発病して会津に戻りますが、手当ての甲斐なく文禄四年二月に伏見の屋敷で他界します。
そのために、氏郷の力を恐れた石田三成が毒を盛ったという風説が立ちましたが、氏郷を治療した曲直瀬玄朔は、三年間患っていたと記していますので、三成毒殺説は成り立たないことになります。
しかし氏郷の三回忌の法要のために描かれた肖像画の賛の中で、氏郷とも親交のあった玄圃霊三(南禅寺の長老)は、「惜しむべし、談笑中、窃かに鴆毒を置く」と記し、毒殺されたと証言しています。
これはどういうことなのか。玄朔か霊三のどちらかが嘘をついていると考えることもできますが、私は氏郷の死因は政宗に盛られた毒の後遺症だったのではないかと考えています。
だから玄朔が診察した時には長期の罹病としか思えなかったけれども、内情を知っている霊三には政宗が盛った鴆毒が本当の死因だと分かっていた。そう考えると、両者が残した記録の矛盾が解消できるのではないでしょうか。
秀吉は一揆を扇動した政宗の罪を、氏郷の告発をねじ伏せる形で許しています。
うがった見方をするなら、政宗が氏郷に毒を盛ったのは、秀吉の意を受けてのことだったと言えるかもしれません。