『歴史の真相』第十七回 ~信長はなぜ安土城に天守閣を作ったのか?~
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歴史の疑問がなるほど納得!!
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■ 質問
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信長はなぜ安土城に天守閣を作ったのでしょうか?
(京都府・Sさん)
■回答
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天守閣は屋根の上に設置した見張り櫓から発生したものだと考えられています。初期のものが望楼型と呼ばれるのはそのためです。
安土城の天主閣はこれを塔の形にした日本で初めてのものですが、信長がなぜこんなものを築いたかについては、はっきりとした理由を記した記録がありません。
ひと昔前までは、天主閣の内部は吹き抜けになっていたという説が主流でしたので、西洋の教会に影響を受けたのではないかと考えられていました。
信長とイエズス会との蜜月時代に築かれたものですし、天主閣という命名にもキリスト教の天主堂をイメージさせるものがあります。
いち早く西洋文化と技術を取り入れた信長らしいとも言えるのですが、天主閣内部には教えを説く釈迦と釈門十大弟子を描いた釈迦説法図、天人影向図(よう ごう ず)、三皇五帝、孔門十哲などの図が描かれているので、どうもキリスト教や西洋文化とはそぐいません。
それならどんな意味だろうと、私もこの二十年ほど考えあぐねてきたのですが、昨年、信長が目ざしていたのは律令制の復活だったという説に出会い、この謎がきれいに解けました。
古代中国に倣った律令国家を確立しようとしていた信長は、安土城を皇帝の宮殿になぞらえていたのです。実は律令制の原典とも言うべき『周礼(しゆ らい)』に、皇帝は明堂(めい どう)という三層の宮殿に住むと記されています。
一階は正方形、二階は十二角形、三階は円形だったという明堂は、何となく安土城の不自然な形と通じるものがあります。中国で初めて完全な律令国家を築いた秦の始皇帝は、明堂に倣った阿房(あ ぼう)宮という宮殿を造っていますが、安土城は阿房宮に似ていると、当時の人々も認識していたようです。
そのことは妙心寺の住職南化玄興が、天正七年(一五七九)に安土城に寄せた讃(さん)の中で、「宮の高きこと阿房殿よりも大に似たり、城の険しきこと函谷関(かん こく かん)よりも固し」と謳(うた)っていることからもうかがえます。
信長が安土城の天主閣を律令制の中心をなす宮殿ととらえていたとすれば、城としての防衛機能をほとんど持たなかった意味も、内部に釈迦や孔子、三皇五帝の図を描かせた理由もよく分かります。
それに近年、この説を強力に後押しする発見が、安土城の大手門跡でありました。
今までは堀に面した門はひとつだと考えられていたのですが、発掘調査によって門跡の他に虎口が三つあり、門の内側には広場があったことが確認されたのです。
これこそ皇帝の宮殿の三門(たとえば唐の長安城には朱雀、含光、安上の三門があります)に倣ったもので、他の城には例がないものです。このことからも安土城の天主閣が、皇帝の宮殿の役割を荷っていたと考えることができると思います。