『歴史の真相』第十五回 ~秀吉はなぜ、蒲生氏郷を恐れたのか?~
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■ 質問
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秀吉はなぜ、蒲生氏郷を恐れたのか?
(新潟県・Nさん)
■ 回答
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秀吉が氏郷を恐れていたというエピソードはいくつかあります。中でも興味深いのは、秀吉が氏郷に会津九十二万石を与えた時、「あやつを上方に置いておくわけにはいかぬ」と言ったという『名将言行録』の記述です。
上方に置いておけば、いつ足をすくわれるか分からないという警戒心の現われで、秀吉はそれだけ氏郷の実力を高く評価していたことになります。
それは何故なのか。四十歳という若さで他界した氏郷に、どうしてそれほどの力があったのか?
理由は三つあります。
ひとつは氏郷の文武両道における才能がひときわ優れていたことです。氏郷は近江国蒲生郡日野の名門蒲生家に生まれますが、十三歳の時に信長のもとに人質に出されます。氏郷を一目見た信長は、「この子の目付きは尋常ではない。只者ではあるまい」と言って、次女冬姫(名は諸説あり)を娶らせることにします。
そして氏郷が元服する時には自ら烏帽子親となり、忠三郎賦秀の名を与えます。忠の字は嫡男の信忠からとったもので、やがては信忠の重臣にしたいという思いを持っていたのでした。
しかも翌年には冬姫を妻として日野に帰したのですから、その厚遇ぶりは他の小姓や人質たちとは明らかにちがいます。
二つ目は、信長の娘婿という特別な立場です。本能寺の変の時は、氏郷は二十七歳でした。日野城が安土城に近いこともあって、本能寺の変の後、信長の妻女たちは氏郷の許に身を寄せます。
これを知った明智光秀は、近江一国を与えるので身方になるように申し入れますが、氏郷は敢然とこれを拒否し、信長の妻女を守り抜きました。この行動は天下の賞賛をあびたほどで、氏郷が中心となって織田家臣団を結束させ、信雄、信孝を支えたなら、織田家を乗っ取ろうとしていた秀吉にとって、きわめて都合の悪いことになります。
そこで秀吉はいち早く氏郷を訪ね、氏郷の妹を側室にすることで兄弟の契を交わすことにしました。当時の日野の所領は六万石ほどですが、氏郷にはそんな石高では計れない値打ちがあったのです。
三つ目は、氏郷がキリシタンの有力者であったことです。氏郷は高山右近の勧めで入信し、キリシタンの序列の中では高い地位にありました。
ポルトガルやイエズス会とも特別なパイプを持ち、通商や交易において大きな力を発揮したばかりか、重臣の山科勝成ら十二名をローマ法王のもとに派遣しています。
しかも利休七哲に数えられる茶人で、利休の後ろ盾によって人脈を広げていったのですから、秀吉がだんだん目障りだと思うようになり、会津まで飛ばしたのも無理からぬことかもしれません。