『歴史の真相』第十四回 ~毛利はなぜ秀吉を追撃しなかったのか?~
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歴史の疑問がなるほど納得!!
あなたが疑問に思う歴史上の何故?どうして?
に直木賞作家・安部龍太郎がお答えします!
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■ 質問
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毛利はなぜ秀吉を追撃しなかったのか?
(『戦国IXA 千万の覇者』コラボ企画より)
■回答
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六月二日の早朝に本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に討たれました。
この報が備中高松城で毛利勢と対峙していた羽柴秀吉のもとに届いたのは、六月三日の夕方だと考えられています。
秀吉はただちに毛利の外交僧である安国寺恵瓊を自陣に招いて毛利方と講和を結び、翌四日には高松城主清水宗治の切腹を見届けてから畿内へ向かいました。
そうして約二百キロの道を走破し、六月十三日には山崎の戦いで明智光秀勢に大勝します。
この行軍は「中国大返し」と呼ばれ、秀吉の卓越した力量を示す好例として資料に大きく取り上げられていますが、いくつかの謎もあります。
そのひとつが、どうしてこれほど迅速な行動ができたかということです。変の報を知ってから大返しの準備を始めたのでは、とてもこんなことはできない。秀吉は事前に変が起こることも知っていて、準備万端整えていたのではないかという説は、今日でも有力視されています。
もうひとつは、毛利勢はなぜ本能寺の変が起こったと知った後も、秀吉勢を追撃しようとしなかったのかということです。これには古くから諸説ありますが、すでに講和を結んでいるのに、それを破棄しては武士道にもとると判断したという説が支持されてきました。
このことについて私は、黒田官兵衛らキリシタン勢力が本能寺の変が起こることを察知し、中国大返しの準備をしていたと考えてきました。
官兵衛らは各家中にいるキリシタンからの情報を収集し、秀吉に天下をとらせることによって、布教と信仰の自由を守れる国を築こうとした。
その計画の詳細については拙著『信長はなぜ葬られたのか』(幻冬舎新書)にゆずることとし、ここでは、『歴史街道』(PHP研究所刊)七月号で、三重大学の藤田達生氏が発表された論文を紹介させていただきます。
「中国大返し 毛利が動かなかった本当の理由」と題した本稿で、藤田氏は毛利家の家臣玉木吉保が記した『身自鏡(みのかがみ)』を紹介しておられます。
玉木はこの中で、秀吉と安国寺が講和の交渉をした時、秀吉はすでに毛利家の重臣たちの多くを身方に引き入れていて、証拠の連判状を見せた、と記しているのです。
しかも、「毛利(輝元)殿御謀言不浅(おはかりごとあさからざる)故に信長既に果給ふ」と、毛利輝元の計略によって信長が討たれたことを知っていることまで明かしています。
毛利の謀とは、副将軍に任じられていた輝元が、足利義昭と、長宗我部元親を動かして光秀と接近させ、本能寺の変を起こしたことを指しています。
ここまで重臣を取り込まれた上に、内情を見透かされていては、とても動けない。毛利はそう判断したと、藤田氏は論じておられます。
秀吉の情報源が官兵衛だとすれば、私の考えとも矛盾しないのではないでしょうか。