『歴史の真相』第十三回 ~信長の首が本能寺になかった理由とは?~
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歴史の疑問がなるほど納得!!
あなたが疑問に思う歴史上の何故?どうして?
に直木賞作家・安部龍太郎がお答えします!
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■ 質問
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信長の首が本能寺になかった理由とは?
(『戦国IXA 千万の覇者』コラボ企画より)
■回答
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本能寺の変を起こした明智光秀は、信長の首を取ることを最大の目標としていました。
その首を罪人として晒せば、信長を討ち取った証明になるし、己の行動を正当化できるからです。
その時にかかげる高札には、「将軍足利義昭に反逆した重罪人」と記されていたことでしょう。
信長もそれが分かっていたからこそ、本能寺に火を放って首を取られないようにしました。その甲斐あって信長の首はついに見つからなかったと一般的には言われていますが、これは不思議な話です。木造建築の火事では、遺体が焼けることはあっても、焼失することはないと思われます。
たとえ黒焦げの遺体になっていたとしても、明智方は歯並びや頭蓋骨の形などを手がかりに信長の首だと突きとめ、信長をよく知る者にそれを認めさせた上で、晒し首にしたはずですが、そうすることさえできませんでした。
興味深いのは秀吉がこの機密情報をいち早くキャッチし、中国大返しの最中に諸将に送った書状の中に、「信長は本能寺から脱出して生きている」と書いていることです。光秀と秀吉、どちらにつくか迷っていた者たちにとって、この情報の持つ意味は決して小さくなかったはずです。
では、どうして信長の首は見つからなかったのか。考えられるのは誰かが明智勢の目を盗んで本能寺の外に持ち出したということです。それについての伝承が、京都の阿弥陀寺と富士宮市西山の西山本門寺に残っています。
阿弥陀寺の清玉上人は正親町天皇の帰依を受けたほどの高僧ですが、信長とも親しい関係にありました。そこで、本能寺の変が起こったと知ると即座に駆けつけ、近習たちから信長の遺体を受け取って阿弥陀寺に運んだというのです。
その後、秀吉がこのことを知り、信長の葬儀を行うために遺体の引き渡しを求めましたが、上人は頑として応じませんでした。こうした経緯については、『信長公阿弥陀寺由緒之記録』に詳しく記されています。
一方、西山本門寺には、信長の首を埋めたと伝わる首塚が今も大切に祀られています。
ここに首が運ばれたのは、本能寺の変の前日に信長の御前で囲碁の対局をした本因坊算砂(日海上人)が、原志摩守宗安にそうするように命じたからです。
算砂は後に寺内に本因坊という塔頭を作って住んでいますし、宗安の子日順を弟子とし、寺の第十八代住職にしています。
この日順が記した過去帳に「惣見院信長 為明智被誅」とあります。
明智の為に誅さる。誅するとは上位の者が下位の者を処罰する場合に使う言葉ですから、光秀は信長より上位の者に命じられて信長を討ったということです。
当時それに該当するのは、将軍義昭しか考えられないのです。