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たかが還暦、されど還暦

西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第48回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/03/29

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■ ​ ​第48回 商業・流通の時代
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黒田官兵衛も熱心なキリシタンだった。

『黒田家譜』は触れていないが、ルイス・フロイスの『日本史11』(中公文庫)には、彼が死の直前まで信仰を保ち、「自分はキリシタンとして死にたい」と言ってロザリオを胸の上に置いてくれるように頼んだと記されている。
官兵衛が本能寺の変に乗じて秀吉に天下を取らせることができたのも、関ヶ原合戦の時に豊後で独自の軍勢を編成できたのも、キリシタン勢力を動かせる立場にいたからである。

ところが江戸時代にキリシタン弾圧をおこない、こうした忠実を消し去ってしまったために、官兵衛の本当の姿が見えなくなってしまった。

 

弊害はこればかりではない。
江戸時代の史観によって戦国時代史を語っているために、本当のことがほとんど分からなくなっている。
その史観の中核を成しているのは、鎖国史観、士農工商の身分差別史観、農本主義史観、儒教史観である。
それゆえ戦国時代も国内だけの視野で語り、商人や流通業者の活躍には目を向けていない。

 

しかし戦国時代は世界の大航海時代であり、日本人が初めて西洋世界と出会い、彼らへの対応を迫られた時代だった。
石見銀山や生野銀山の銀が輸出され、その見返りに明国や東南アジアの品々が大量に輸入された。
その交易から上がる利益は莫大で、商人と流通業者が経済の主導権を握っていた。そのことは堺や博多の豪商たちの経済力を見れば明らかである。

 

大名たちも商人の意向を無視することはできなかったし、交易のためには相手国との外交が欠かせなかった。
信長がいち早く堺を直轄領にしたのも、イエズス会を保護してポルトガルと友好関係をきずいたのもそのためである。

 

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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年3月19日付
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