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たかが還暦、されど還暦

西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第46回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/03/15

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■ ​ ​第46回 イエズス会との断絶
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信長とヴァリニャーノとの間でどのような交渉が行われたのか、記録した資料は発見されていない。
わかっているのは天正九(十五八一)年七月十五日の盂蘭盆の日に、信長がヴァリニャーノのために安土城に堤灯を下げて美しく飾り立て、ローマ法王への献上品として安土城を描いた屏風絵を託したことだ。

いかにも友好的な送別のように見えるが、二人の交渉は決裂していた。

 

なぜそれが分かるかと言えば、信長がこれ以後イエズス会と手を切り、自分を神として安土城内の總見寺に祭らせ、家臣や領民に参拝するように求めているからだ。

これに対してルイス・フロイスは『日本史』の中で激烈な調子で非難している。
人間が神だと名乗ることは、彼らキリスト教徒にとって絶対に許せないことだし、
この時点で信長との関係が断絶したことを示している。

 

信長がこんな行動に出たのも、自分を神として祭ることで、イエズス会と手を切ったことを天下に示し、自分に従うなら總見寺に参拝してキリスト教とは手を切ったことを天下に示せと迫ったのだ。
江戸時代におこなわれた踏絵と同じである。
イエズス会との断絶はスペインとの断交を意味している。

 

五カ月にも及ぶ交渉でも合意できなかったのは、スペインが明国征服のための兵を出すように求めたからだと思われる。
日本にはそれを示す資料は残っていないが、ヴァリニャーノがマニラ在住のスペイン総督にあてた手紙を読めば、そうとしか考えられない。

イエズス会とスペインを敵に回したために、信長政権はとたんに不安定化した。キリシタン大名や南蛮質易で巨万の富を得ていた豪商たちが、信長を見限りはじめたからである。

 

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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年3月17日付
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