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たかが還暦、されど還暦

西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第45回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2019/03/08

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■ ​ ​第45回 信長の外交
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『信長燃ゆ』の連載は一年半におよんだ。
およそ原稿用紙千二百枚。
上下巻の単行本が発行されたのは、平成十三年九月のことである。

私は大仕事を無事に終えた安堵にひたり、自分をねぎらうつもりでベトナムへの旅に出た。
次の作品のための取材をかねてホーチミン市に滞在していると、担当編集者が上下で三万部の増刷が決まったと知らせてくれた。
評判も上々だという。

 

これでベストセラーになるだろうと思い、ホテルのバーで一人で祝杯をあげたが、売り上げは期待したほど伸びなかった。
この作品の質と仕上がりには今でも自信を持っているが、文学賞の候補になることもなかった。
思うに、時代に早すぎたのである。

 

近年、加藤廣氏の『信長の棺』や遺友山本兼一の『信長死すべし』など、本能寺の変をあつかった小説にはほとんど近衛前久が登場し、信長と朝廷の軋轢が変の原因だと語られるようになったが、私の本が出た十四年前にはそこまで理解が進んでいなかった。
そのために一般の読者には、荒唐無稽な絵空事のように受け取られたのである。

それゆえ私はなおもこの事件にこだわり、変の背後には国内的な問題だけでなく、国際政治の対立があることを突き止めた。

 

信長はイエズス会を通じてポルトガルと友好関係をきずき、南蛮貿易による利益や軍事技術の供与を得ていたが、ポルトガルは一五八〇年にスペインに併合された。

そこで信長はスペインとの新たな外交関係をきずく必要に迫られ、イエズス会東アジア巡察使のアレッシャンドロ・ヴァリニャーノと一五八一年二月から七月まで交渉をつづけたが、合意には到らなかったのである。


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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年3月16日付
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