西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第37回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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■ 第37回 見所同見の見
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私にいったい何が起こったのか。思うに作家としての目ばかりでなく、池田さん、佐藤さんに仕込まれて編集者の目がそなわったのだろう。
表現という行為は、自分の主観だけではなし得ない。
相手にどう伝わるかという客観性がなければ、勝手な放言と同じである。
アマチュアならそれで構わないが、プロになるには自分がどんな作品を書いているのか、書きながら判断できるもう一人の自分が必要なのだ。
このことを世阿弥が『花鏡』の中で的確に語っている。
舞台上で能を演じる役者が持つのは我見(主観)である。
しかし我身だけでは自分の演技の良し悪しは分からないので、見所(観客)の目になって自分を見なければいけない。これを見所同見の見と言う。
つまり演じながら観客の目で自分を見る客観性を獲得せよということであり、作家の場合には書きながら編集者の目を持つということだ。
私もようやくその境地に達したわけだが、それだけではまだ足りないと世阿弥先生はおっしゃっている。
見所同見の見で見ても、自分の後ろ姿を見ることはできない。
ところが「後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまえず」なのである。
ならばどうすれば後姿が見えるようになるか?
自分と観客を同時に見る天の目を持てばそれが見える。
見ることを離れて心の目で見るのが究極の離見の見であり、そのためには目前心後、
「目を前に見て心を後に置け」と言うのである。
この境地まではまだまだ遠いが、見所同見の見を得て書き直した原稿は二人の鬼編集者のお眼鏡にかない、プロの作家としてデビューする道筋をつけてもらえることになったのだった。
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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年3月4日付
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