西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第31回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
■ 第31回 原稿売り込み
■■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
昭和六十年三月末で大田区役所を退職させていただいた。二十九歳の時である。
仕事を辞めて困ったのは、昼間外を出歩きにくいことだった。下町の商店街の人たちが、
「あら、今日はお休みですか?」
と声をかけてくれる。辞めましたとは言いにくいので、「ええ、まあ」とあいまいな返事をする。それが何度か重なると、みんな声をかけてくれなくなった。何か不祥事を起こして辞めさせられたと思ったようだった。
退職してまず手をつけたのは、上京以来取り組んできた『反復する魂たちの群から』を完成させることだった。およそ七百枚の長編を一年かかりで書き直し、高専文芸部の仲間である森君に読んでもらった。
指摘してくれたいくつかの欠点を修正し、出版社に持ち込むことにした。
いきなり持っていっても相手にしてくれないだろうと思い、作品のテーマやストーリーなどを書いた概要を十数社に送って渡りをつけることにした。
これを世に出したなら、一躍脚光をあびるだろう。
さて、何社が手を上げてくれるかと緊張しながら待っていたが、一週間たっても二週間たっても電話一本かかってこない。
いったいどうしたことだと、各社に問い合わせの電話をした。
すると担当者が迷惑そうに、当社は雑誌で新人賞をもうけているのでそちらに応募してくれ、と連れない返事である。
「しかし、新人賞の応募規定は百枚までじゃないですか。ボクの作品は七百枚の長編なので」
規程外だからこうしてお願いしているのだと説明しても、あんたの相手をしている暇はないとばかりに電話を切る。
こちらが一生懸命書いた概要さえ、読んではいないのだった。
■――――――――――――――――――――――――――――――――■
西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年2月24日付
■――――――――――――――――――――――――――――――――■